観光資源として復元された旧太子駅
2018(平成30)年に観光資源として復元された旧太子駅
写真=徳永 茂 / 構成=高橋祐介

旧国鉄長野原線太子支線、草軽電気鉄道、旧信越本線—廃線めぐりの鉄道旅で、日本の産業史に触れる

各地に散らばる廃駅・廃線探訪

鉄道をこよなく愛するプロカメラマン・徳永茂さんによる厳選した廃線スポットを紹介! 産業遺構が多い群馬県の吾妻郡に残る太子駅と北軽井沢駅、安中市に残る旧熊ノ平駅の3駅をピックアップ。栄枯盛衰の歴史から、当時の技術や生活に思いを馳せる。

目次

旧国鉄長野原線太子支線・太子(おおし)駅【現・旧太子駅】

旧国鉄長野原線太子支線は、現在のJR吾妻(あがつま)線の支線として鉄鉱石の運搬に利用されていた路線だ。太平洋戦争末期の1943(昭和18)年に戦局の悪化による輸入鉄鉱石の減少から、国内の鉄鉱石増産を目的に日本鋼管による鉱山開発が行われた。

当時、群馬鉄山(群馬鉱山)は褐鉄鉱鉱床(かってっこうこうしょう)と呼ばれる鉄の原料鉱石の採掘量が国内随一であり、現在のチャツボミゴケ公園が露天掘りの採掘場とされていた。そこで、日本鋼管による開発が進み、1945(昭和20)年に神奈川県の川崎製鉄所まで鉄鉱石輸送のために敷設されたのが太子支線(長野原〜太子間の5.8km)だ。途中に駅のない1駅区間とし、労働奉仕による突貫作業で完成された路線である。

ホッパー棟の跡が歴史を感じさせる。また、ホームなども当時の位置のままだ。採掘された鉄鉱石を山から運ぶためのロープウエーの残骸もある。近隣の生活道は路線の上にあり、トンネルなどは今でも使われている場所もある

ホッパー棟の跡が歴史を感じさせる。また、ホームなども当時の位置のままだ。採掘された鉄鉱石を山から運ぶためのロープウエーの残骸もある。近隣の生活道路は路線の上にあり、トンネルなどは今でも使われている場所もある

ホッパー棟の跡が歴史を感じさせる。また、ホームなども当時の位置のままだ。採掘された鉄鉱石を山から運ぶためのロープウエーの残骸もある。近隣の生活道は路線の上にあり、トンネルなどは今でも使われている場所もある

戦後は客車の乗り入れとともに生活の要になった太子駅

奥が今は使われていない太子線の架橋跡。手前は現役のJR吾妻線だ

奥が今は使われていない太子線の架橋跡。手前は現役のJR吾妻線だ

太子駅は群馬鉱山からの鉄鉱石搬出を直接行えるように、コンクリート製の「ホッパー棟」と呼ばれる、2階部分に鉄鉱石などをため、1階に停車した貨車に直接流し入れる施設を1944(昭和19)年に建造した。群馬鉱山から太子駅までの鉄鉱石運搬には、索道(さくどう)と呼ばれる空中ロープウエーを使い山あいの運搬を担っていた。旧太子駅のこのホッパー棟は3階建てだったが、1966(昭和41)年の閉山にともない、2、3階部分は取り壊され、1階部分は埋められることになった。

現在は観光資源として駅舎の復元が進み、ホッパー棟の1階部分を掘り起こし、レールを敷き直した状態で保存されている。また、12両の車両が展示されており、無蓋車(むがいしゃ)と呼ばれる屋根のない貨車が6両展示されており、日本一の展示台数を誇る。廃線後の路線はレールを外され、生活道路として一部は利用されており、トンネルや橋梁(きょうりょう)も残っている。

現役時代の太子駅とホッパー棟が収められた貴重な写真も飾られている

現役時代の太子駅とホッパー棟が収められた貴重な写真も飾られている

復元された駅舎は博物館として資料が展示されている。貴重な写真から、当時の繁栄もうかがえる

復元された駅舎は博物館として資料が展示されている。貴重な写真から、当時の繁栄もうかがえる

復元された駅舎は博物館として資料が展示されている。貴重な写真から、当時の繁栄もうかがえる

1952(昭和27)年には日本鋼管から旧国鉄に編入された太子線は、近隣の六合(くに)村の要望もあり1954(昭和29)年から旅客営業を開始した。白砂川沿いを通る太子線は、冬になると雪が降るたびに蒸気機関車がスリップしながら進んでいたと六合村の村民から聞くこともできた。さらに、当時は鉱山からの廃液を脱硫するのに、硫黄成分がある草津の温泉水などを使っていたため、白砂川は生物がすめない死の川と呼ばれていたようだ。

現在では鉱山も閉山され、石灰などでろ過しており魚もすむ川へと戻っている。また、六合村の赤岩集落は養蚕集落としての特徴的な街並みが残る場所だ。

太子駅から近い、六合村の赤岩集落は養蚕の里として伝統的な建築群が保存されている地区だ。白砂川の脇を通る太子線を望むことができる高台に広がっている

太子駅から近い、六合村の赤岩集落は養蚕の里は伝統的な建築群が保存されている地区だ。白砂川の脇を通る太子線を望むことがでる高台に広がっている

太子駅から近い、六合村の赤岩集落は養蚕の里は伝統的な建築群が保存されている地区だ。白砂川の脇を通る太子線を望むことがでる高台に広がっている

草軽(くさかる)電気鉄道・北軽井沢駅【現・「北軽井沢駅」駅舎跡】

旧北軽井沢駅を模した資料展示施設で、当時の草軽鉄道の雰囲気を再現している

旧北軽井沢駅を模した資料展示敷設で、当時の草軽鉄道の雰囲気を再現している

草軽鉄道は、1909(明治42)年に草津興業の発起人一同により「草津軽便鉄道」として、政府の補助を受けて建設された民間経営による路線だ。当時は全国各地に多くの「軽便鉄道」が生まれた時代。建設の目的は草津温泉や避暑地の高原などへ、スイスの登山鉄道を参考に多くの旅客を運びたいというものだった。また、草津方面への貨物輸送を実現することで地方の発展を目的としていた。1913(大正2)年から着工し、区間営業を行いながら延長工事が続き、1919(大正8)年に新軽井沢駅から嬬恋(つまごい)駅の36.8kmほどが開通した。

その後、社名は「草津電気鉄道」と変更され、今までの蒸気機関車から電気機関車に入れ替わった。新軽井沢から草津温泉までの55.5kmの区間が全線開通したのは1926(大正15)年、社名も「草軽電気鉄道」となり多くの観光客を乗せて運行された。

北軽井沢駅を復元しており、構内にも入ることが可能だ。さらに、近隣の北軽井沢観光協会には当時のさまざまな資料と模型が展示されている

北軽井沢駅を復元しており、構内にも入ることが可能だ。さらに、近隣の北軽井沢観光協会には当時のさまざまな資料と模型が展示されている

北軽井沢駅を復元しており、構内にも入ることが可能だ。さらに、近隣の北軽井沢観光協会には当時のさまざまな資料と模型が展示されている

草津に残る草軽電気鉄道の駅があった証し。石碑の足元にはレールの一部が残っている

草津に残る草軽電気鉄道の駅があった証し。石碑の足元にはレールの一部が残っている

当時の路線は、建設費用を抑えるために橋梁や橋は少なく、トンネルを通さずに建設された。そのため、山あいの谷の急カーブや、勾配区間ではスイッチバックする場所が存在した。現在では路線のほとんどが生活道路になり、全盛期には22ほどあった駅も残っていない。一部の石橋や橋台が残っており、終着駅だった「草津温泉駅」は浅間台公園となり石碑が設置されている。

吾妻川に架かった橋梁は台風により流失し、上州三原駅の跡地が残る

吾妻川に架かった橋梁は台風により流失し、上州三原駅の跡地が残る

吾妻川に架かった橋梁は台風により流失し、上州三原駅の跡地が残る

駅舎の跡は、案内看板などに記載されていることもあり、当時の様子をうかがうことができる場所もある。そんな草軽電気鉄道は大正末期から昭和初期にかけて、『四千尺高原の遊覧列車』をキャッチフレーズに夏には貨車を改良した納涼客車「しらかば号」や、全面ガラス張りの展望客車「あさま2号」を運行し、日本初のトーキー映画『マダムと女房』などの日本映画に登場するなど知名度を高めた。また、戦後の資材運搬などで1946(昭和21)年に活況のピークを迎える。

しかし、自動車道路の発達や、1949(昭和24)年の台風による橋梁の流失などにより利用者が減少。1960(昭和35)年には全盛期の8分の1まで激減し、区間ごとの廃線が決定していく。そして1962(昭和37)年に草軽電気鉄道の全線が廃止となり、47年の歴史が終焉した。

草軽電気鉄道の路線を追うと、そのほとんどが現在は生活道路として活用されている。一部に駅のホームの痕跡が残っている

草軽電気鉄道の路線を追うと、そのほとんどが現在は生活道路として活用されている。一部に駅のホームの痕跡が残っている

草軽電気鉄道の路線を追うと、そのほとんどが現在は生活道路として活用されている。一部に駅のホームの痕跡が残っている

現存する電気機関車「デキ」は軽井沢駅に展示

現行の車両に比べて小型であり、独特のデザインの「デキ12形」

現行の車両に比べて小型であり、独特のデザインの「デキ12形」

電気機関車として登場した「デキ12形」はL字型の車体に高く伸びたパンタグラフが特徴的で、「カブトムシ」の愛称で親しまれた。現在は実物サイズの木製モデルが「北軽井沢駅」駅舎跡に展示され、廃線時に在籍していた「デキ12形」は軽井沢駅北口に展示されている。草軽電鉄ではデキ12形が有名だが、乗客が乗れる「モハ100形」も5両ほど製造された。

貴重な「デキ12形」は車体全体に屋根が設置されているが、モーター部分なども残った状態で保存されている

貴重な「デキ12形」は車体全体に屋根が設置されているが、モーター部分なども残った状態で保存されている

貴重な「デキ12形」は車体全体に屋根が設置されているが、モーター部分なども残った状態で保存されている

旧信越本線・熊ノ平(くまのたいら)駅【現・旧熊ノ平駅】

進入禁止エリアにはロープによる規制がされているが、ほぼ当時のままの状態を保っている

進入禁止エリアにはロープによる規制がされているが、ほぼ当時のままの状態を保っている

日本最大のレンガ造りのアーチ橋が現在でも残る旧信越本線。1885(明治18)年に群馬県の高崎駅から横川駅、1888(明治21)年には新潟県の直江津駅から長野県の軽井沢駅間、1893(明治26)年に群馬県の横川駅から長野県の軽井沢駅が開通した。当時はすでに、東京都から群馬県までは私鉄として高崎線が運行しており、3県が直結したことで石油や生糸などの大量輸送に貢献した。現在でも区間ごとに運行している路線があるが、横川駅から軽井沢駅の区間は1997(平成9)年に長野新幹線(当時)の開業にともない廃止となった。

レールは一部移動されているため、実際の運用時から変更されている。変電所は当時のままの姿が残る。旧信越本線は新線のトンネルも残っている

レールは一部移動されているため、実際の運用時から変更されている。変電所は当時のままの姿が残る。旧信越本線は新線のトンネルも残っている

レールは一部移動されているため、実際の運用時から変更されている。変電所は当時のままの姿が残る。旧信越本線は新線のトンネルも残っている

開業当初の蒸気機関車による運用から、煤煙(ばいえん)問題や輸送量の少なさが取り上げられ、1912(明治45)年には日本初の電化路線として電気機関車を導入した。車両もドイツから輸入した「EC40形」や、国産の「ED42形」や「EF63形」などが活躍した。電気化のために横川には火力発電所を新設し、さらに碓氷(うすい)峠の路線区間の両端に変電所を設置することになる。現在も残る旧熊ノ平駅は、信号場の役割と単線区間のために車両交換設備も設けられていた。1950(昭和25)年には駅構内にて土砂崩れによる復旧作業中に大崩落が発生し、甚大な被害とともに多くの犠牲者を出す事故となった。その後も、救助活動とともに復旧が進められ、15日ほどで完全復旧した歴史がある。旧熊ノ平駅から横川駅の間の約6kmは遊歩道「アプトの道」として開放されており、慰霊碑や神社も建設されている。

芸術的なデザインのダイナミックなレンガ造り橋梁

国内最大のレンガ造りの橋梁は旧国道18号からアクセス可能だ

国内最大のレンガ造りの橋梁は旧国道18号からアクセス可能だ

横川・軽井沢間にトンネルは26本あり、一部は遊歩道として、通過可能な整備が行われている。歩行部分は舗装されているので歩きやすい

横川・軽井沢間にトンネルは26本あり、一部は遊歩道として、通過可能な整備が行われている。歩行部分は舗装されているので歩きやすい

横川・軽井沢間にトンネルは26本あり、一部は遊歩道として、通過可能な整備が行われている。歩行部分は舗装されているので歩きやすい

旧国道18号から望める、碓氷峠の観光スポットとなっている「めがね橋」は、旧信越本線の中でも最も有名なレンガ作りの橋梁だ。碓氷峠の区間には18の橋梁があり、この橋梁は「碓氷第三橋梁」とも呼ばれている。イギリス人技師パウナル氏の設計により、1893(明治26)年に竣工したが、工期はわずか1年6か月の短期間。翌年には強度不足から補強工事が実施された。

長さ87.7m、高さ31mを誇り、使用されたレンガの数は200万個以上と、国内最大のレンガ造りアーチ橋となった。遊歩道「アプトの道」として整備されてからは、橋の上を歩くことができる。

「アプトの道」沿いには当時の旧丸山変電所が2棟残る

外観のみ残っている旧丸山変電所だが、一部は資料保管などに使われている

外観のみ残っている旧丸山変電所だが、一部は資料保管などに使われている

外観はレンガ造りの様式が残っている。中に入ることはできないが、「アプトの道」は遊歩道なので休憩場所としても利用されている

外観はレンガ造りの様式が残っている。中に入ることはできないが、「アプトの道」は遊歩道なので休憩場所としても利用されている

外観はレンガ造りの様式が残っている。中にはいることはできないが、「アプトの道」は遊歩道なので休憩場所としても利用されている

旧信越本線は遊歩道としてJR横川駅から旧熊ノ平駅まで自由に歩くことが可能だ。その道中に、電気化にともない建造された旧丸山変電所が残っている。「碓氷峠鉄道文化むら」からのトロッコ列車に乗車し、旧丸山変電所横の「まるやま駅」で下車もできる。

この旧丸山変電所には列車が上り勾配にかかる電力を補う役割があり、蓄電池が312個ほど設置されていた。建物は当時の工場建築様式に近いが、出入り口や側面には装飾が施されている。新線開通が決まり役割を終えたが、1994(平成6)年に国の重要文化財に指定されている。

歯型レールは1枚ではなく、複数枚重ねた形でレールに設置されていた

歯型レールは1枚ではなく、複数枚重ねたかたちでレールに設置されていた

勾配のきついルートはアプト式の電気機関車で進む

群馬県から長野県への路線は勾配がきつく、通常の車両では登坂性能の限界を超えてしまうほどの傾斜(66.7パーミル)であった。そのため、「アプト式」と呼ばれる歯車を噛み合わせながら登坂する方式を採用したのだった。

この方式は2本のレールの間に、「ラックレール」と呼ばれる歯形レールを平行に設置し、電車側の歯車を噛み合わせて進むというものだ。当時の車両の速度は時速18kmほどだったが、モーターなどを傷めないために運転は大変慎重に行われていたという。廃線後に取り外されたラックレールの一部は、横川駅前の排水溝の蓋として見ることもできる。この「アプト式」は1963(昭和38)年に新線を建設したことで歴史に幕を下ろした。

横川駅は駅舎の建て替えが行われたが、近くには当時の跡が残ってる

横川駅は駅舎の建て替えが行われたが、近くには当時の跡が残ってる

横川駅は駅舎の建て替えが行われたが、近くには当時の跡が残ってる


150年以上前に誕生した日本の鉄道は、国の施策として多くの私鉄会社が誕生し、地方の産業や観光を支えるために役立ってきた。今回紹介した3路線は、目的や時期はバラバラだが、激動の日本を支えてきた路線だ。全国各地にはまだ、知られていない廃線・廃駅が点在している。歴史巡りのひとつとして、巡ってみるのもいいだろう。

今回訪れた廃駅の場所はMAPで確認を

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