赤いファミリアが生んだ「陸サーファー」現象とは? 第1回日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞車と1980年を振り返る
マツダ・ファミリアが若者を熱狂させた理由─1980年・第1回COTYの受賞車両と時代の空気をモータージャーナリストが回顧【前編】
1980年から始まった『日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)』。第1回受賞車となったのは、マツダの赤いファミリア。ファッション感覚でクルマを選ぶ当時の若者たちの心をつかみ、「陸(おか)サーファー」という社会現象を巻き起こした一台だ。本記事では、自動車雑誌全盛期をリアルに体験してきたモータージャーナリスト・高橋アキラさんが、ファミリアと1980年当時の日本車事情を独自目線で振り返る。
東京、神奈川に「レジェンドサーファー風な若者」を量産したクルマとは!?
「陸サーファー」という言葉を生み出したマツダ・ファミリアの3ドアハッチバック。4ドアセダンも1980年9月にデビューしたが、人気があったのは3ドア
日本カー・オブ・ザ・イヤーが始まった1980年頃、日本の自動車メーカーは量産体制が整い勢いに乗っていた時代だ。高度経済成長期を支えたサラリーマンは豊かになり、一般家庭で自家用車を持つのは当たり前の時代へと成長している過程だった。
しかし、その頃の日本の自動車メーカーは欧州や北米に追いつけ、追い越せの勢いがあったものの、残念なことに、欧州車やアメリカ車に敵わないところも多々あり、自社製造や海外への販売にとっては課題だった。
一方で、自動車雑誌は飛ぶ鳥を落とす勢いがあった。雑誌には国産車だけでなく欧州車、アメリカ車、スーパーカーまで掲載され、試乗レポートや技術解説、あるいは性能テストの結果や海外の自動車文化も掲載されており、僕は、そんな自動車雑誌を聖書(バイブル)のように位置付け、発売日が待ち遠しかったことを覚えている。
その自動車雑誌の経営陣や編集長は、国産メーカーの広報部とは情報交換と称して、さまざまな意見交換を行っていた。海外のクルマをよく知る編集者が日本車を応援する目的で、その年に発売された最も良いモデルを表彰しようという話に発展し、日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)が誕生したという。
諸先輩から聞いた話では、当時、フリーのジャーナリストという立場の方はごく少数で、媒体とジャーナリストが一体となって、投票が行われていたらしいのだ。
さて、1980年にファミリアが第1回COTYを受賞した。受賞後のファミリアは大人気となり、クルマ好きでなくても注目するモデルへと成長した。特にクルマを自身のファッションアイテムと考える人たちには、赤いファミリアが人気で、当時ブームだったサーファーファッションに身を包み、赤いファミリアに乗るのがオシャレだったのだ。
赤いファミリアの屋根にサーフボードを乗せて湘南を走り、女子は脱色した茶髪にパンタロンとノースリーブ、男子はおかっぱ頭に口髭を生やした若者であふれていた。彼らは男子も女子も一様にプカシェル(貝のネックレス)を身に着け、冬は男子も女子もムートンジャケットを着ていた。彼らは実際にはサーフィンをせず、アメリカンな空気を楽しんでいる若者たちで、次第に「陸サーファー」と呼ばれるようになった。
なぜ当時の陸サーファー男子がおかっぱ頭で口髭なのか? これはパイプライン・マスターズを2年連続で優勝した伝説的なプロ・サーファー「ジェリー・ロペス」の真似だったのだ。がしかし、若くてチャラい若者にレジェンドサーファーの風体は非常にアンバランスだったが、当人たちに全く似合っていないとの認識はなかったに違いない。ちなみに僕は西城秀樹を真似たロン毛だった。関係ないが。
このように、赤いファミリアは多くの若い世代の心に響き、だれもがCOTYの受賞に納得していたと思う。ふと思ったのは、このブームは東京と神奈川のはやりだが、果たして名古屋や大阪、そしてマツダのある広島でもおなじようなブームがあったのだろうか? 謎である。
受賞車両は『陸サーファー』という言葉を生み出した
マツダ・ファミリア3ドアハッチバック
2ボックスのコンパクトカーでFF車。欧州車のようなスタイリングは当時の若者たちに大人気となった
1980年にCOTYを受賞したファミリアは5世代目で、初めてFFになったモデルだ。3・5ドアハッチバックで4気筒1.3L、1.5Lのエンジンを搭載して1980年6月に登場。直線基調のインテリア&エクステリアはすっきりとした印象を与え、人気となっていった。
中でも「赤のXG」が大人気で電動サンルーフが付いていたことも人気の理由だった。ただダサかったのは、発売当時ドアミラーはまだ認可がおりていなく、ドアミラーではなくフェンダーミラーだったこと。だからスタイリッシュなファミリア用ドアミラーはカー用品店で多く売られ、そちらもヒットしていた。
ファミリアの発売から数年後、中古車屋でアルバイトをしていた僕は、この赤いファミリアをたくさん売ることになる。XGの中古車は数が少なく、代わりに下位グレードのXLの入庫が多くあった。もちろんボディカラーは赤なのだが、ここでやっていた仕事はダサいフェンダーミラーをドアミラーに取り替えることと、XGのボディサイドには黒い樹脂モールがあるのだが、XLには装備されていないので、カー用品店でドアミラーと一緒に購入。せっせとドアにゴムモールを貼る作業をやっていたのだ。
中古のXGより、XGもどきの中古XLは価格も安いため、意外と売れたから不思議だ。XGだと騙しているわけでもなく、ただ、XGに似せただけなのに。それほど第1回COTY受賞車の赤いファミリアは人気だったのだ。
じつは1974年にフォルクスワーゲン・ゴルフが発売され、世界中でヒットしていた。2ドアハッチバックのFFでエンジンはバリエーションがあったようだが、1.5Lが発売当時のエンジンだった。あれ? どこかで聞いたことのある内容で。
マツダの開発陣がどこまでゴルフを意識したのかは不明だが、当時、ゴルフが各社のCセグメントモデルのベンチマークであったことは間違いなく、FF、横置きのパッケージは大いに参考となったに違いない。もしかしたらゴルフに似せただけなのに、大ヒットとなるとは? と思ったかどうかはわからない……。
前席はフルフラットまで倒せ、後席は左右二分割で前方へ折りたためるほか、リクライニングもでき機能的だった
1983年には1.5Lターボが追加。1984年にはそのターボ車をベースに、レカロシートなどを標準装備した特別仕様車「スポルト ヨーロッパ」も登場した
マツダ・ファミリア3ドアハッチバック(XG)
SPECIFICATION
全長×全幅×全高:3955×1630×1375㎜
ホイールベース:2365㎜
車両重量:820kg
駆動方式:FF
車両価格(発売当時):103万8000円
販売期間:1980年〜1985年
こうして、第1回COTYの受賞車ファミリアは、「陸サーファー」という言葉と若者のブームを生み出した。7月7日公開予定のCOTY特集後編では、ファミリアと争ったノミネート車の紹介とともに1980年を振り返る。

高橋アキラ
たかはし・あきら モータージャーナリスト、公益社団法人自動車技術会 モータースポーツ部門委員、日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、日本モータースポーツ記者会会員。やんちゃなチューニング全盛期の自動車専門誌編集者時代を経て、技術解説、試乗レポートなどに長けた真面目なジャーナリストに。Y30グロリアワゴン、マスタングなど愛車遍歴にはマニアックな車も多い。