クラウン、セドリック、ブルーバード、スカイライン、アコード…10代以上変わらずに続くその名に歴史ありの車種5選
日本を代表する車名となった人気シリーズを一挙紹介!同一の車種名を冠して10代以上続いている(いた)クルマは、そのメーカーの顔と言っていい基幹車種であることは間違いない。つまりはメーカーのフィロソフィーを体現していると言えないだろうか?
もちろん、その時代においてのトレンドは取り入れつつだろうが、その本質は変わらずそのメーカーの矜持が垣間見える存在。と同時に、我が国の自動車産業の歴史そのもの。そんな各メーカーを代表するクルマをあらためて振り返ってみよう。
我が国では、フルモデルチェンジしても名前は変わらず引き継がれる文化が育まれた
トヨタの創業者豊田喜一郎の夢、国産技術で誕生した初の純国産乗用車がトヨペット クラウンRSデラックスだ
日本車の特徴のひとつに、多くのクルマに名前が付いていることが挙げられる。「うん? 当たり前だろ」と思うかもしれないが、ドイツのメルセデスやBMWは番号や記号だったりする。1、2、3、A、B、Cと。いかにもドイツらしい整理の仕方であり、カテゴライズしやすい仕分けになっていると感じる。
一方、日本だとクラウン、セドリック、アコードなど、名前があり、さらにはオーナーが名前をつけ「ちゃん」や「くん」をつけて「クロちゃん」とか「トラくん」とか……。まぁ、最近はそうした傾向は減っているようだが、オーナーのひとつの愛着表現として付けているのだろう。
僕が免許を取りクルマを手に入れようと算段したとき、やはり名前でイメージが膨らんだものだ。「フェアレディZ」「スカG」「GTO」「セリカ」と憧れるものの、Zは金持ちボンボンでナンパだなぁとか、スカGはジャパンの時代だけど、ハコスカなら買えるかも。でもなぁ、おっさん臭くねぇ? 18歳が乗っていたら完璧オタクだ、とか。セリカはダルマが渋く、かっこいい。けど高っけー! ほいだらGTOはどうじゃ? 三菱ってぇのが渋い、僕のイメージにピッタリと、自分は渋い人間と勘違いしたまま中古車を購入。これが3番とか7番とかが車名だったら、そうした勝手なイメージが湧いたのだろうか?
実は、そうした愛称は国内では自動車の誕生のときから付けられていたようで、後のトヨペット クラウンもトヨタの創業者豊田喜一郎氏がクラウンと命名している。いわば子供のような存在としてクラウンが生まれたのだろう。だからこそ、モデルが成長をし、フルモデルチェンジが行われても名前は変わらず、後継モデルにも引き継がれる文化が育ったのかもしれない。
一方、ひと世代で終わってしまったクルマも多数ある。不出来により淘汰されたわけではなかろうが、後継車を作らないモデルも存在し、そこは工業製品の難しいところだ。いや、元服したことにしておくのはどうだろう。
10世代以上継続したモデルは、人々から愛されている証拠とも言えるし、フィロソフィーという側面も持っている。ここでは受け継がれてきた名車を振り返り、何が起きていたのか? ちゃんと成長したのかを振り返ってみたい。
10代以上続く各メーカーを代表するクルマを一挙紹介!
トヨタ・クラウン
外国に頼らない純国産初の乗用車が誕生
1955年に純国産そしては初の乗用車としてクラウンが誕生している。そして67年後、2022年に現行型クラウンは16代目として発表され、15代続いた江戸・徳川将軍を超えた。その「クラウン」の名はトヨタの創業者豊田喜一郎氏が命名し、外国に頼らない国産技術での生産という夢を実現している。開発主査は中村健也氏で1957年にはコロナも誕生させた天才エンジニアだ。日本人にとってのクラウンは、憧れの存在でもありオーナーになることは社会での成功者とも言えた時代があった。僕も2モデルほどオーナーになってみたが、ただの背伸びだったことを覚えている。
斬新すぎた4代目クジラ・クラウン
4代目 トヨタ・クラウン(1971〜1974)
すべてが斬新すぎたのか、クラウン史上最大の失敗とまで言われてしまい、日産のセドリック/グロリアに販売台数でも抜かれるという不名誉も
変わったクルマがデビューした。当時としては珍しい丸みを帯びたデザインで、2段構えのフロントフェイスなどの斬新さで、話題となったものの、珍車との見方もあり不人気になってしまった。今見ればシトロエンあたりがデザインしていそうな、個性あるデザインに見えるから不思議だ。しかしながら、当時不人気ゆえの希少性もあって、現在の中古車市場では高価格で取引されている皮肉もある。
こいつは運転した記憶も残っている。運転席からは、まるでベニア板が目の前に置かれているかのようにフラットなボンネットが記憶にある。先端、左右の見切りが悪く、初心者マークには厳しいモデルだった。
「いつかはクラウン」はTVCMのナレーションから
7代目 トヨタ・クラウン(1983〜1987)
2ドアハードトップが廃止され、ボディータイプは4ドアハードトップ、4ドアセダン、ワゴン、バンの4車種構成となった
3ナンバー車に最上級グレードのロイヤルサルーンGを、5ナンバー車にはロイヤルサルーンを、ステーションワゴンにはスーパーサルーンをそれぞれ新たに設定。ライバルのセドリック/グロリアがBピラーレスの4ドアハードトップで人気となるが、クラウンにはBピラーが残った。またドアミラーが4ドアハードトップにだけ装備され、Cピラーが樹脂処理されていたのも特徴のひとつで、オヤジ臭を感じたことを覚えている。そして「いつかはクラウン」のキャッチフレーズはこの7代目のTVCMで俳優・石坂浩二さんのナレーションで放送された。
3ナンバーサイズとなり高級路線でマジェスタが誕生
9代目 トヨタ・クラウン(1991〜1995)
高級路線のマジェスタが誕生(写真)。ボディデザインはロイヤルシリーズ、マジェスタともに共通のイメージだがマジェスタが新開発のモノコックボディーに対して、クラウンは伝統的なペリメーターフレームだった
クラウンのメイン車種となった4ドアハードトップのみフルモデルチェンジ。ロイヤルシリーズに加えて、高級路線のマジェスタが誕生した。一番高いグレードを欲しがる日本人の所有欲を鷲掴みにする戦略だった。また、フルモデルチェンジで3ナンバーサイズになったが、デザイン的な特徴がなく、押し出し感のないデザインのため4代目クジラ・クラウン以来の不人気モデルになってしまった。そのため販売台数でもライバルのセドリック/グロリアに迫られた。
日産セドリック
日産の最上級モデルに位置付けられたクラウンに対抗するセドリック
トヨタ・クラウンの誕生から遅れること5年。日産は純国産車としてセドリックを1960年に発売した。フロントウインドウがサイドまで回り込むラップアラウンド・ウインドウが特徴で、アメ車風のスタイルで人気になった。またモノコック構造は初代セドリックから取り入れられ、先進技術への取り組みは早かった。
1971年発売の3代目230型からはプリンス自動車時代のグロリアも加わり、セド・グロと呼ばれる姉妹車の時代を迎えた。ボディデザインではコカ・コーラ瓶のボトルラインを取り入れた。またクラウンの2ドアハードトップに対抗するためハードトップを設定、翌72年にはわが国初の4ドアハードトップを追加。同時期の4代目クラウンは法人や保守層から敬遠され、この230型はクラウンの販売台数を超えた歴史的な一台でもあった。
コークボトルラインが好評。販売台数でクラウンを抜く
3代目 日産セドリック(1971〜1975)
一世を風靡した4ドアハードトップ。Bピラーレスながら4ドアという奇抜なデザインが受け、後継モデルにも引き継がれた
中央部と絞ったコカ・コーラ瓶のデザインは女性の体をイメージしてデザインされたというが、日産はそのデザインを230型セドリックに採用。ライバルのクラウンは、クジラ・クラウン(4代目)が保守的なユーザーからは敬遠され、230型は販売台数でクラウンを上回った。2代目セドリックではピニンファリーナ・デザインで欧州風になるものの、セド・グロはいつもアメ車的匂いを発し、ボトルラインと合わせてグラマー好きには人気だったのかもしれない。またBピラーレスなど斬新な技術を盛り込むなど、先端技術への挑戦も日産らしさとして人気になった。
日本初のV型6気筒3.0Lエンジンを搭載
6代目 日産セドリック(1983〜1999)
デザインは430型との大きな違いがなく、新鮮さに欠け7代目クラウンに販売台数では大きく差をつけられてしまう
排気量が大きいほうが偉かった時代に、L28型直列6気筒2.8Lエンジンから日本初のV型6気筒3.0LのVG30型に変更。また車両寸法要件が改正されたため、ホイールベースが延長され、ボディも大きくなって、またひとつ偉くなった。そのため230型、330型、430型から530型へとはならず、Y30型へと型式名は変わった。
僕はこのY30型ステーションワゴンを受注生産で手に入れ、フロントシートがベンチシートでコラムAT車を購入。しかし、僕自身は……偉くはなれなかった……。
長年にわたり日産車を支えたL型エンジンに変わり、VG型を開発。VGはVery Goodの略という軽妙さが日産らしく、また全長を短くできるためFFにも搭載ができた
販売台数でクラウンを再び上回る
8代目 日産セドリック(1991〜1995)
セド・グロの上位に位置するシーマが1988年にデビューし、その高級車の匂いを受け継ぐ8代目セドリックが人気になる
Y32型となったセドリックは4ドアハードトップのみモデルチェンジし、セダンはY31型を継続生産した。Bピラーは復活しており、開口部が大きすぎたことに気づいた。そして重量増に伴いねじれ剛性を見直す。またライバルのクラウンの販売不振もあって、その間に販売台数で再びクラウンを上回っている。この時代はバブル経済の崩壊が始まり、徐々に自動車産業にもその影が落ち始める。デビューした91年の年末には、ソビエト連邦も崩壊した。
日産ダットサン ブルーバード
コロナと人気を二分する日産ブルーバード
トヨタ・コロナとライバル関係にありBC戦争とも言われるほどの販売競争が60年代、70年代に繰り広げられた。初代はダットサン・ブルーバードの名で1959年に誕生し310型とした。次いでモノコックボディを採用した410型が63年に登場。1600ccエンジン搭載のSSSは65年の発売。SSSはスーパースポーツセダンの略で、その後の510型で一世を風靡する。510型はモータースポーツでも活躍し、1970年のサファリラリーでは総合優勝を果たしている。また石原裕次郎さん主演の『栄光への5000キロ』という映画でも話題を集めた。7代目からはFF(エンジン横置き・前輪駆動)に変わると、次第に販売が細くなっていき、2001年に販売終了した10代目を最後に42年間の歴史に終止符を打った。
僕の青春ではブルーバードは中途半端な存在で、格下のサニーか格上のセド・グロに興味を引かれ、ブルーバードは未開拓車だった。ただ510型などで国際ラリーに出場していた柑本(こうじもと)寿一さんのショップ「柑本技研」へ足を運んだ記憶はある。
尻下がりのピニンファリーナ・デザインが不評だった
2代目 日産ダットサン ブルーバード(1963〜1967)
北米、欧州でも販売されるグローバルカーでピニンファリーナのデザインだったが、尻下がりデザインが不評だった
410型ブルーバードが第2世代で、初代のセミ・モノコック構造からフル・モノコック構造になり、セダンとエステートのラインアップ。SUツインキャブを搭載した1.2Lのスポーツセダンは64年の発売。スーパースポーツセダンの「SSS」は65年に登場した。ピニンファリーナのデザインだったが尻下がりデザインは不評で、販売台数ではコロナの後塵を拝することに。1966年にこの410型でサファリラリーに挑戦しているが、プジョーに負けている。
サファリラリーで優勝、映画『栄光への5000キロ』で人気沸騰
3代目 日産ダットサン ブルーバード(1967〜1972)
510型となりキャッチコピーは「新しい時代の新しいセダン、NEWブルーバード」とわかりやすい。またモデル末期では「世界の名車・ブルーバード」とはよく言った
スーパーソニックラインという直線的で彫りの深いシャープなデザインが人気を後押ししたモデル。またエンジンも一新されL型4気筒が搭載され、1.6LのL16型がSSSに搭載。そして1970年にサファリラリーで総合優勝を果たし、世界で脚光を浴びた。
2ドアクーペのSSSが大人気に。その理由はモータースポーツでの活躍と石原裕次郎さん主演の映画『栄光への5000キロ』(1969年公開)がトリガーとなり、810型あたりがデビューするころまで中古車市場で人気が継続した名車だ。
ブルーバード初のFFになって登場
7代目 日産ブルーバード(1983〜1990)
このモデルからFF(エンジン横置き・前輪駆動)になり、「ブルーバードにならないか」という意味不明のキャッチコピーに笑ったのを覚えている。写真は1986年登場のブルーバードマキシマ4ドアハードトップ
先代910型がスクエアなデザインで人気となったため、7代目もスクエアなデザインを継承した。型式は1010型にはならずU11型となった。それはFRからFFへと駆動方式が大きく変化し、名機L型エンジンも役目を終え、新世代のCA型へと変わったこと、そして車検証の車名欄が「ダットサン」から「ニッサン」に変わったことなどで型式系統が変わっている。キャッチコピーもユニークで「ブルーバード、お前はスーパージェネレーション」「走りが、だん然、素晴らしい」「ブルーバードにならないか」「人の中へ。」とカオスだ。
カローラ、サニー、コロナ、マークⅡ、シビック、セリカカムリ…その名に歴史ありの名車たち
初代カローラは1966年に誕生。そこそこの高級感とバランスした価格設定で、大衆車として人気を博した。2代目で登場したDOHCエンジン搭載のレビン(TE27型)は、ラリーで活躍した
1950年代後半から国産車の量産がはじまり、高度経済成長に伴い自家用車は次第に一般家庭へと普及し始める。メーカーも大衆車路線でモデルを揃え、トヨタはカローラ、コロナ、日産はサニー(日本国内は9代まで)といった10世代以上続く名車を誕生させている。
カローラに至っては初代が誕生した1966年から2025年の現在まで継続しており、しかも競技ホモロゲモデルにもなったGRカローラやクロスオーバーのカローラクロス、そしてハッチバックにツーリングとラインアップしている。
また1966年に誕生したサニーでは、レースカーにしたB110型、B210型で育ったレーシングドライバーは数多く、モータースポーツにも貢献したモデルではあったが、2004年で日本での役目を終えている。そして初代クラウンを作った中村健也氏は1957年に初代コロナを生み出している。今や感染症ウイルスの代名詞として使われがちなコロナだが、車名でもあったことは記憶に留めてほしい。
初代サニー(写真)は1966年に誕生、カローラとは双璧の名車だ。2代目のB110型はレースでも活躍し多くのレーシングドライバーを育てた。2004年に9代目で日本国内での販売は終了。10代目以降は海外仕様のみとなる
初代トヨペットコロナは1957年にトヨタの乗用車としては初のモノコック構造で登場。写真の3代目はアローラインというスラントノーズが特徴で、1968年カローラに販売台数を抜かれるまでトップを維持した。1996年発売の11代目でプレミオのサブネームがつき、2001年の初代プレミオに引き継がれる
クラウンとコロナの中間に位置するマークⅡ。初代(写真)は1968年に登場。80年代にはチェイサー、クレスタとともにマークⅡ3兄弟としてハイソカーの中心的存在だった。9代目マークⅡセダンは2004年で生産終了、同年登場のマークXが後継車
ホンダ・シビックはカローラとの差別化を目指し、価格、燃費、運動性能に力を入れて開発。第一次オイルショックを背景に、厳しい排ガス規制に適応したCVCCを搭載した初代シビック(写真)は、世界的な大ヒットになった。最新モデルは2021年登場の11代目
セリカのセダン版として誕生。セリカ/カリーナとの姉妹車で、初代セリカカムリ(写真)のみFR。2代目以降は「セリカ」の名が外れ単独で「カムリ」に。同時にビスタ店専売の姉妹車「ビスタ」を発売。は2017年に登場した10代目は2023年に生産終了。米国で発表された11代目は海外のみで販売
日産スカイライン
プリンス自動車が産んだ名車。国内外に愛好家が多い
1957年プリンス自動車が主力車種として生産を開始したDセグメントの乗用車。1966年に日産と合併した後も引き継がれ、現在も生産・販売が継続されている。3代目から7代目の終盤まで桜井眞一郎さんが開発責任者を務め伝説化している。またキャッチフレーズや愛称も多く存在し、「愛のスカイライン」や「ケンとメリーのスカイライン」などTVCMでも話題になった。
3代目の「箱スカ」からは高性能車の「GT-R」が誕生し、以降GT-Rは特別なモデルとして存在を続け、R35型からはスカイラインの名がなくなり「GT-R」という車名になっている。
北海道美瑛町にある「ケンとメリーの木」はTVCMに使われたことから観光名所にもなっているが、若手編集者との撮影で訪れた美瑛で看板を見たとき、その若手は「ケンとメリーの木を知らない」と堂々と発言。ひと言喉まで出かかったが、老害にならないよう意識し始めたきっかけでもあった。
GT-Rが誕生したご存じ「箱スカ」
3代目 日産スカイライン(1968〜1972)
先代スカイラインの「スカG」から「ハコスカ」の愛称になり、「愛のスカイライン」のワードが最初に使われた
3代目の発売当初は1.5Lエンジンを搭載した4ドアセダン(C10型)、エステート(WC10型)、バン(VC10型)の3モデル。しかし発売からわずか2か月後にL20型を搭載したGC10型が登場。ホイールベースは延長され、ロングノーズになっており見た目が異なっていた。サスペンションもリーフスプリングからセミトレの四輪独立懸架になり、そしてGT-Rもこの世代から始まり、スカイライン=スポーツカーのイメージが確立されていった。
ケンとメリーの「愛のスカイライン」で親しまれた
4代目 日産スカイライン(1972〜1977)
「愛のスカイライン」がキャッチコピーになったのが、このケンメリのTVCMから。丸形4灯のテールランプもこのケンメリからだ
直列6気筒のL型エンジンを搭載。超ロングノーズの2ドアクーペは憧れのデザイン。そしてTVCMで流れた「ケンとメリー 愛のスカイライン」のフレーズが大ヒットし、社会現象にまでなった。ロケ地の北海道美瑛町は一躍有名に。なぜ、スカイラインが「ケンメリ」と呼ばれるのか知らない世代が中心の今だが、旧車好きの若者からも支持されている名車だ。後世になると4ドアの「ケンメリ」を「ヨンメリ」と呼ぶ人も出てきた。
先代に続き1973年にはGT-Rがラインアップ。販売期間がわずか4か月と短く、200台足らずで生産終了したため、今なお「幻のGT-R」と呼ばれている。
ケンメリ以降GT-Rは途絶えていたが、満を持して復活
8代目 日産スカイライン(1989〜1993)
GT-Rは誰もが知る名車だが、R32型登場前はハコスカとケンメリにしかなかった。R32型以降、GT-Rグレードを中心にスカイラインは変貌していく
エンジンはL型からRB26型直列6気筒に変わり、爆発的な人気となった。日産には1990年までに世界一の技術を実現しようという「901活動」があり、それによってR32型スカイラインは鍛えられた。今ではクルマ好きの間では知られるニュルブルクリンクで鍛える活動もこの頃から始まった。テストドライバー加藤博義氏は、2003年に厚生労働省管轄の「現代の名工」を受賞、翌2004年には「黄綬褒章」を受賞している。余談ではあるが、僕は編集者時代にR32型GT-Rのムック本の編集長を務めた。
ホンダ・アコード
ホンダを代表するグローバルモデルとして誕生
1970年代のホンダの登録車は、そのほとんどが、シビック、アコード、プレリュードの3モデルだった。2025年にプレリュードが北米で復活するニュースがあるが、アコードも一時国内市場から消えていた時代があった。アコードは2024年に国内市場に復活し(ホームページでの先行公開が2023年9月、発売は2024年3月)、e:HEVを搭載して戻ってきたが、かなり大型になっていた。アコードは発売当初、シビックをサイズアップしたセグメントとしたため、シビックにも似たデザインで人気を博した。そしてハッチバックスタイルが人気となり、のちにステーションワゴン人気の火付け役になるアコードワゴンも誕生している。そして、レジェンドが生産中止となっている今(2025年)、アコードはなんとホンダのフラッグシップモデルに位置づけられているのだ。
ハッチバックでデビュー。翌年セダンを投入
初代アコード(1976〜1981)
3ドアハッチバックが大人気で時代を象徴する一台だった。初代は北米の環境基準をクリアするCVCCを搭載していた
フォルクスワーゲン・ゴルフが3ドアハッチバックスタイルでデビューするとたちまち人気のスタイルになった。日本ではマツダのファミリアとホンダ・アコードハッチバックが人気になる。とりわけサーファーの間でこの2台は人気となり、陸(おか)サーファーと呼ばれる、なんちゃってサーファーが好んだクルマだ。またアメリカの排ガス規制をクリアしたCVCCエンジンを搭載。ホンダはこの当時から北米マーケットを重視し、グローバルモデルとして開発していた。
ハッチバックが発売された翌年にセダンがデビューするも、ハッチバックほどの人気にはならなかった
リトラクタブルヘッドライトが印象的
3代目 アコード(1985〜1989)
エンジンのホンダと言われるように、電子制御燃料噴射装置のPGM-FIを搭載しエンジンを刷新している
第6回日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した3代目。販売店の関係でビガーという兄弟モデルも存在した。リトラクタブルヘッドライトが印象的だが、欧州へは異形4灯ヘッドライトで仕向地で顔が変わっていた。また欧州と日本にだけエアロデッキが発売されている。シューティングブレークのデザインは先進的人気を得るも、北米では販売されなかった不思議があった。
ワゴンブームに火をつけた!?
5代目 アコード(1993〜1997)
北米市場を意識しボディサイズをアップ。全車3ナンバーサイズになって登場
マニアの間では「USアコード」と言われた5世代目。北米の安全基準に合わせるため、全モデルが3ナンバーになり、北米マーケットの影響が次第に強まってきたことを実感させるモデルだった。そのためかステーションワゴンが人気になり、レガシィと人気を二分するワゴンブームがやってきた。また国内市場向けに5ナンバーセダンとしてアスコット/ラファーガを発売したが、3ナンバーアコードの人気を超えることはなかった。
50年以上変わらない名前で親しまれてきた軽の商用車
1961年にスズライトの本格商用としてデビューしたスズキのスズライト・キャリー。名前が「運ぶ」とは素晴らしい名だ。いったい誰がつけた愛称なんだ?
自動車のニーズは商用からスタートしたモデルが多い。また進化の過程で最初に投入するのが商用車というケースもある。EV化が始まったときに三菱i-MiEVが注目されたが、後に軽トラックと軽バンも販売された。水素を使ったFCEVもトヨタ・ミライやホンダ・クラリティが注目されたが、バスがテスト車両で開発され乗用車へ展開した経緯もある。また商用車にはデザインの古臭さなどの要素は小さく、セダン→ミニバン→SUVといった変更は不要で、単に働く機能が求められる。そのため息の長いモデルになるのだろう。もしかするとテスラのサイバートラックは、西暦3000年になっても存在するのかもしれない。
1960年にダイハツ初の軽四輪車として誕生したダイハツ・ハイゼットシリーズ。2025年の現在、軽自動車商標では65年続く最古の商標モデルということになる
クルマが工業製品なのは言うまでもない。だから新しいほうがいいに決まっているのだ。しかし「昔は良かった」というのも事実で、特に最近は電動化が進み、人肌感が薄れていく気がしてならない。だから愛称もなく、もしかすると名前はなくなり、記号や番号に変わるのかもしれない。現にマツダの主力車種は記号化され、車格がわかりやすくなっている。工業製品においても愛着が湧く、そんな人肌感のある自動運転車が出てきてもいいと非老害人は思うのだが。
高橋アキラ
たかはし・あきら モータージャーナリスト、公益社団法人自動車技術会 モータースポーツ部門委員、日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員、日本モータースポーツ記者会会員。やんちゃなチューニング全盛期の自動車専門誌編集者時代を経て、技術解説、試乗レポートなどに長けた真面目なジャーナリストに。Y30グロリアワゴン、マスタングなど愛車遍歴にはマニアックな車も多い。