【1963年7月23日】130名の中から初代「ミス・フェアレディ」が決定!|Today's memoriesあの日の記憶
文=津島 孝

銀座で始まった“日産の顔”──初代ミス・フェアレディ、その知られざる役割とは!?

応募130名から5人を選出! 1963年、日産が打ち出した“企業イメージ戦略”の先駆け

高度経済成長期の銀座に誕生した日産ギャラリーを彩る存在として選ばれた初代ミス・フェアレディ。応募130名から選ばれた5名は、「知性と華やかさ」を基準に選出された“日産の顔”となった。この制度は、企業イメージを象徴する伝統として今も受け継がれている。

【1963年7月23日】
130名の中から初代「ミス・フェアレディ」が決定!

初代「ミス・フェアレディ」に選ばれた女性たち

日産を代表するスポーツカー「フェアレディ」にちなんで命名されたミス・フェアレディ。容姿はもちろん、明るさと知性を備えた彼女たちは、日産の商品説明や接客、PR活動などを担った

1963年7月23日、日産は銀座四丁目角(五丁目)の三愛ドリームセンター2階に開設する日産ギャラリーで働く「ミス・フェアレディ」を決めた。

当時のニュースリリースによれば、全国から集まった応募者130名の中から書類審査と面接で15名が選ばれ、東京の芝・高輪のプリンス会館で最終審査を実施。審査員には雑誌編集者、美容家、映画評論家の小森和子氏ら文化人も名を連ね、慎重な審査の末、5人のミス・フェアレディと5人の準ミスが選出された。

選ばれた5人はいずれも「容姿だけでなく、明るさと知性を備えた女性」と評され、同年8月1日の日産ギャラリー開場と同時に嘱託社員として勤務を開始。ミス・フェアレディは単なるキャンペーンガールではなく、商品説明や接客、広報を担う“PRスペシャリスト”として位置づけられた。

1963年の日本は高度経済成長期の真っただ中。翌年には東京五輪を控え、銀座は最新文化の発信地として注目を集めていた。自家用車の普及が本格化する直前でもあり、メーカー各社がブランドイメージの確立を急いだ時代である。日産が銀座にショールームを構え、その“顔”としてミス・フェアレディを配置したのは、まさに企業イメージ戦略の象徴だった。

こうして誕生したミス・フェアレディは、日産の広報文化を形づくる存在となり60年以上続く伝統へと発展していく。1963年のこの発表は、その長い歴史の第一歩となった。

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