柚木麻子 きまぐれな日常
「幸せって何だろう」は、小説家、エッセイスト、俳優、タレントなど、さまざまな分野の方にご自身の「幸せ」についての考え方や、日々の生活で感じる「幸せ」について綴っていただくエッセーです。 今回の執筆者は、小説家の柚木麻子さん。友達のとある一言をきっかけに思い至った、自分なりの幸せのバロメーターとは?
きまぐれな日常
この間、久しぶりに一緒に飲んだ友達が「この後は、自宅の近所のビジネスホテルに泊まる」と言うので驚いた。
「ビジネスホテルでだらだらして、翌朝は朝食ビュッフェを食べる。YouTubeにもそういう動画よくあるよ」と応え、うきうきした足取りで去っていった。
その身軽な後ろ姿に羨望をおぼえた。
目的もなく外泊。老舗ホテルとか特徴のある宿泊施設ではない。それも近所。旅ですらない。
私はその日からずっと「ビジネスホテル ひとり」で検索して現れた動画を見続けている。
ホテルのPRなのかな、と思わなくもないものも多いが、会社員らしき人々が、仕事帰りに思いつきで宿泊し、部屋でコンビニやデパ地下で買った好きなものを飲み食いし、翌朝は職場に向かう映像は、短編小説を読んでいるような、自分もリフレッシュしているような快感があって、やみつきになっている。
そこには、日常のリズムを破壊し、あらがおうとするパワーと同時に、何かを生み出さねば、というルールからの解放もあるように思う。
真似をしてみたいが、あくまでも思いつきでふらりと泊まらないことには意味がない。
仕事を終わらさねば、と忙しく考えたり、人気ホテルをせっせと検索している私は、おそらくあんまり向いていないのかもしれない。
新型コロナウイルスの影響で、めっきり冒険することがなくなった。
外出するからには、換気や除菌対策が万全な環境で、せっかくなら何か思い出をつくらねば、それより何より子どもを喜ばせねば、と結局、色々な義務を積み上げてしまい、いざドアを開けるころには準備でへとへとになっている。
また、最近では値上げの影響で気まぐれに消費するのを控える気持ちが強く、疲れたらタクシーに乗るとか、中が見えない喫茶店でコーヒーを飲む、などを躊躇することが多い。
そもそも年齢に関係なく、女性が一人でブラブラすることへの危険性や偏見が社会でじわじわ加速しているような気もする。
でも、私にとっての幸せのバロメーターとは、その時々の心に従って、なんの下調べもせずに、時間やお金を自分のために使うことだ。
つまらない映画、美味しくないコーヒー、道に迷うこと、見知らぬだれかと言葉を交わすこと。そんな時間を重ねていると、孤独や失敗が怖くなくなる。どんどん心に風が入ってくる。
ふらりとビジネスホテルに宿泊するのは今は無理でも、少しずつ気まぐれな日常を取り戻すために助走をつけているところだ。
柚木麻子
ゆずき・あさこ 1981年東京都生まれ。 2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年、同作を含む『終点のあの子』でデビュー。2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞受賞。 ほかの著書に『私にふさわしいホテル』『ランチのアッコちゃん』『伊藤くん A to E』『本屋さんのダイアナ』『奥様はクレイジーフルーツ』『マジカルグランマ』『BUTTER』『さらさら流る』『らんたん』など。 近著は、初の独立短編集『ついでにジェントルメン』。