森 絵都 幸せの定義
「幸せって何だろう」は、小説家、エッセイスト、俳優、タレントなど、さまざまな分野の方にご自身の「幸せ」についての考え方や、日々の生活で感じる「幸せ」について綴っていただくエッセーです。 今回の執筆者は、作家の森絵都さん。小説という捉えどころのないものと向き合う日々だからこそ、曖昧ではなくシンプルに「幸せ」を定義したそう。どんな定義なのでしょうか?
幸せの定義
幸せとは何か、自分なりの定義をはっきり決めておこう。そんなことを思い立ったのは二十代半ばの頃だった。
児童文学の畑からデビューしてまだ間もなかった私は、小説というものの捉えどころのなさに慄(おのの)き、何が正解で何が不正解かわからないまま進んでいかねばならない道の茫漠(ぼうばく)さに脅(おび)えていた。
文学に良し悪しを測る明確な基準はない。
自分の書いているものが本当に書かれるべきものであるのか知り得ないまま、この先ずっと手探りで何かを生みつづけなければならない。
感覚とか、経験とか、違和感とか、そんな曖昧で目に見えないものを手掛かりにして。
そのわかりづらさを悲観した私は、せめて実生活だけでも単純明快にしておきたいと考えたのだった。
自分にとっての幸せとは何か、曖昧さの欠片(かけら)もない定義を設ければ、きっと人生もシンプルで見通しのいいものになるにちがいない、と。
シンプル。それが最も重要な条件だった。
小説のような複雑さは人生に必要ない。
ちゃんと目に見え、実感できる。そこが大事なところ。
「心の中にいつも小さなひだまりを持っていること」みたいに抽象的な幸福感も要らない。
「朝、一杯目のコーヒーが美味しいこと」というようなおしゃれな響きも求めない。
とはいえ、「衣食住に不自由しない」ではあまりに味気ない。
熟考を重ねていたある日、ふと思った。
人間の幸福とは、つまるところ、一生の中で出会った人々によって決まってくるのではなかろうか。
周りを見渡しても、人間関係に恵まれている人は往々にして恵まれた人生を歩んでいる。
これだ、と思った私は幸せの定義をこう決めた――「良い仲間と良い男」。
実にわかりやすい。
が、これだけではあまりに人任せすぎる気もしたため、その後、「良い仕事」も付け加えた。
これはやり甲斐のある仕事との巡り合わせを意味する。
以来、かれこれ三十年間、私は「あなたにとって幸せとは何ですか」と問われるたび、間髪を容れずに「良い仲間、良い男、良い仕事です」ときっぱり答えてきた。
すると相手は大抵とまどいを浮かべ、「あなたは小説家のくせに心の中の小さなひだまりを大事にしないのか」という顔をするのだけれど、小説家であればこそ、このような結論に落ちついたのである。
森 絵都
もり・えと 1968年東京都生まれ。 『リズム』で講談社児童文学新人賞を受賞しデビュー。 『カラフル』(産経児童出版文化賞)、『DIVE!!』(小学館児童出版文化賞)、『風に舞いあがるビニールシート』(直木賞)、『みかづき』(中央公論文芸賞)など著書・受賞歴多数。