車のある風景

酔っぱらい

松任谷正隆
2022.04.16

イラスト=唐仁原教久

2022.04.16

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音楽プロデューサーでありモータージャーナリストでもある松任谷正隆さん。無類のクルマ好きとして知られる松任谷さんのクルマとの深い関わりをエッセーでお届けします。今月のエピソードは、松任谷さんが路上で遭遇した酔っ払いについて。


酔っぱらい

最近、よっぽどのことじゃない限り300km以上の距離は電車で移動する。もちろん名古屋あたりは新幹線である。コロナなんかのことを考えれば、クルマ移動の方がずっと安全だとも思うが、世の中、怖いのはコロナばかりじゃない。知人によれば、一番怖いのは生身の人間だ、という。生身の人間は、お化けよりも怪獣よりもウイルスよりも怖いのだそうだ。確かになあ。そう言われればそんな気もしてくる。世の中には元から怖い人もいるけれど、怖くない人に恨まれたら、もっと怖い人になってしまうかもしれない。恨みを買うのは恐ろしい。一生呪われるかもしれない。そっちの方がよっぽど怖い、ということなのだろう。
新幹線で移動するときは……ほぼ100パーセント仕事ということになるが……駅までの送り迎えは会社のスタッフにやってもらうことにしている。昔はタクシーを利用していたが、ドライバーによってこっちの気分もあまりに違うのでこうなった。


現在、クルマを運転してくれる会社のスタッフは元僕のマネージャー。女性である。年齢のことを書くと失礼に当たるが、ほぼ僕のひとまわり下である。ま、ベテランであると同時に、昔、このページにも書いたと思うが、僕に運転を鍛えられた女性でもある。鍛えた、というと聞こえはいいが、いちいち隣で文句を言われた、と言った方が正しい。やれ、進路変更の合図が遅いだの、追い越し車線をゆっくり走るな、だの、いわゆるそういったことだ。彼女のマネージャー時代の一番の苦痛な想い出は、僕を横に乗せて送り迎えをしたことだそうだ。はいはい、もう文句は言いませんよ。第一、僕が乗るのは彼女の横ではなく後ろだ。全然違う……でもないか。
そして、助手席に座るのは僕の娘ほどの年齢の現在のマネージャー。寡黙で控えめな女性である。どんな運転にもポーカーフェイス。僕はワンボックスカーの後ろでなんだか芸能人みたいだ。いやいや芸能人だろ、とよく言われるが、実は僕にそんな意識などない。テレビに出たりするのはスタッフとして出ているつもりだからだ。まあ、そんなことはどうでもいい。そんな感じで仕事場を回り、そして駅まで送迎してもらう。


あれは名古屋だったか大阪だったかの帰り。新横浜まで迎えに来てもらった。けっこう最終に近かったから11時過ぎだったはずだ。例によって前席は新旧のマネージャー。そして僕は後ろの席に座り、新横浜のロータリーを出て直進、細い一方通行の道に入る。前の方に酔っぱらいとおぼしき3人組を発見。細い道の真ん中でなにやらくだを巻いていらっしゃる。こういうときの女性ドライバーはさすがだ。停止し、じっと向こうが気がつくのを待つ。20秒、30秒。さすがに後続車が気になってくる僕。でも遅い時間のせいか、後続車は来ていないようだ。酔っぱらい3人は気が大きくなっているらしく、こちらに気づいていてもどく気配はない。道のど真ん中で通せん坊である。「クラクション鳴らせ! 」と後ろから僕。言いながらも、ちょっと嫌な予感はしたのだ。クラクションで動くような連中ではないように見えたからだろう。
プッと、予期せぬオナラみたいに小さなクラクションを鳴らす元マネージャー。生ぬるいなあ。しかし、そのオナラに気づいた酔っぱらいの一人がこちらに近づいてきて凄む。何と言ったか覚えてはいないが、そうとう調子に乗っていたことは確かだ。きっとこちらが女性二人だと思ったのだろう。凄んだ挙句の果てにはクルマにキック。ボコンと音がした。さすがに凹むまでは蹴ってはいなさそうだ。止めに入っているんだかそそのかしているんだか、残りの酔っぱらい二人もこちらに来る。へらへらしているようにも見える。この間の凍り付いたような車内の時間は、経験したことのあるドライバーも多いのではないか。さあ困った。男としてこういう時はどうするべきか。降りて行って「すみませんが」……とやるか、「ふざけるな!」と言ってボコボコにされるか、逆に傷害罪でワイドショーに出るか。いずれにしてもろくな結末は見えない。ひたすら耐えるしかない。この場合の正解は、今になって思うのだけれど、クラクションを鳴らし続け、周りからの救助を待つ、だったのかもしれないな、と思う。もちろん、酔っぱらいがただの酔っぱらいで、特に怖い酔っぱらいではない、というのが前提だけれど。


ほんの数分の出来事ではあるが5倍くらいは長く感じられただろうか。この場を何とか脱出した僕らが今起こった出来事を口にできたのはそれからさらに数分が経ってからである。「参ったな」と言うと、寡黙な女性マネージャーがきっぱりと、でも静かにこう付け加えた。「あの顔は一生忘れません」……ほらみろ、あの酔っぱらいは彼女の呪いを一生受け続けることになるのだ。もうどうなっても知らんぞ。

松任谷正隆

まつとうや・まさたか 1951年東京生まれ。作編曲家。日本自動車ジャーナリスト協会所属。4 歳でクラシックピアノを始め、20歳の頃、スタジオプレイヤー活動を開始。バンド「キャラメル・ママ」「ティン・パン・アレイ」を経て多くのセッションに参加。現在はアレンジャー、プロデューサーとして活躍中。長年、「CAR GRAPHIC TV」のキャスターを務めるなど、自他共に認めるクルマ好き。

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