ハンドルを握ると性格激変!? あるミュージシャンに松任谷さんが譲ったクルマの運命は?
松任谷正隆さんが自らのカーライフについて赤裸々に綴るエッセー音楽プロデューサーでありモータージャーナリストでもある松任谷正隆さん。無類のクルマ好きとして知られる松任谷さんのクルマとの深い関わりをエッセーでお届けします。今月のエピソードは、クルマを運転すると性格が別人のようになるというミュージシャンとの思い出について。
- ※本連載のウェブ掲載は今月が最終回となります。次回からは、冊子版『JAF Mate』(1月・4月・7月・10月発行)に掲載されますので、冊子版にて引き続きお楽しみください。
ホンモノ
正直に言おう。僕も運転をすると人が変わる。臆病な自分と攻撃的な自分の両極端になる。これに気付いたのは、運転を始めて間もない頃。たぶん、路上が少し怖くなくなってきた頃からだと思う。誰かの横に乗るたびに、ドライバーはなにかしらぶつぶつと文句を言い、そんな影響を受けたのかもしれない。僕も同じようにぶつぶつ言い、ため息をついた。それくらい、路上には不条理が存在した。
もちろん、世の中にはサンキューハザードなんて存在しない時代。ひょっとしたらクルマにハザードランプなんてものも付いていなかったかもしれない。その逆に、親切なドライバーに出会うと、自分もそういうドライバーになろう、と数時間は思った。実際にそういう真似をしてはみるものの、不条理な目に遭うと瞬間僕の心はリセットされ、攻撃的な性格に切り替わる。このやろう……。でも、その気持ちは1分くらいでするすると覚めていくのがわかった。1分我慢をすれば、何事もなく自分は平常心に戻れるのだ。よっぽどのことでもない限り。
7割がたのドライバーは大なり小なり、こんなふうなのではないか。では残りのドライバーはといえば、よっぽど人間ができているか、ただの鈍感か、やばいやつか。
これはとある知り合いのミュージシャンの話。彼はジェントルマン。しいて言うならイタリア系のイケメンだ。彫りが深く、濃い顔をしている。そして優しいのである。人と話すときも声は小さく、もっと言えば猫なで声で話す。ちょっと不自然とも言える。これ、デフォルトではないだろう、と、あるとき思った。案の定、見ていると、楽器の世話をするアシスタントにはけっこう怖い顔をしている。いや、それだけではない。遠くて聞こえないけれど罵声を浴びせているようにもみえる。でも、こちらを振り返るとにっこりとほほ笑むのである。うーん、これは表と裏があるかもしれん。
その後、一度彼のクルマに乗せてもらったことがある。ずいぶん前のことだ。確か、僕が助手席、かみさんが後ろの席に座って苗場に向かったのだった。クルマはいすゞの大人しいセダンだった。彼はものすごく丁寧な運転で、急加速、急減速もせず、淡々と走る。かといって鈍感というわけではなく、追い越し車線を走ったかと思えばすぐに走行車線に戻り、同じペースを保ち続けるという、もう安全運転の見本みたいだった。二重人格を疑ったことをひどく反省した。罵声を浴びせかけていたように見えたのも僕の聞き違いだったのかもしれない。それからというもの、人は見かけによるもの、というのが僕の新しい考え方になった。
何年か後、ショーの打ち上げのため、会場から離れた、とあるレストランに向かった。僕はかみさんを乗せ、一足先に。もちろん、僕は彼ほど安全運転ではない。ずっと雑で、気にくわないクルマには独り言ではあるが悪態をつく。かみさんは、それをごく普通のことと思って聞き流す。しかし、レストランに着いても、待てど暮らせど、彼は来ない。いすゞには他のミュージシャンがもう2人乗っていて、従って3人が来ない。打ち上げパーティーは仕方なしに3人抜きで始まり、パーティーも半ば、といったところに3人がとぼとぼと入ってきた。聞くところによれば途中で事故を起こしたのだという。しかも緩いカーブでの自損事故らしい。いったい、どうやったらあんなところで、しかもあんな安全運転なやつが事故を起こすのだろう。そのときは本当に謎だらけだったのだが、数年たってある事実が判明した。
僕のクルマが欲しい、ということで彼にクルマを売ったのである。ドイツ製の小さなセダン。3リッター、マニュアルギアボックス。馬力は300近くあったかもしれない。5年乗ったから、まあいいか、ということで手放したのだが、それから2か月もたたないうちに、やつはひどく申し訳なさそうな顔をしてやってきて、例の猫なで声でこう言ったのだ。すみません、廃車にしてしまいました……。彼の言い分ではこうだ。「細い上り坂にクルマが止まっていたんです。僕はそれをよけようと時速30kmくらいのスピードで、3速で3mmくらいアクセルを踏んだだけなんです」うーん、上り坂で時速30km、3速は無理があるなあ、と思ったが、やつは続けた。「そうしたらスピンして電柱にぶつかって……」。
彼の言う通りだったとするなら、3速でアクセルを踏んでも急加速はしない。3mmならなおさらだ。たとえ踏み込んだとしてもエンジンがカリカリと悲鳴を上げるだけだろう。そしてそこがいきなり氷の路面だったらともかくスピンなんかは絶対にしない。百歩譲ってスピンして電柱にぶつかったとしても10cmくらいどこかが凹むくらいだ。
その後、彼と2台でドライブしてみてわかるのだが、彼こそが本物のジキルとハイドだったのである。
狼よ……じゃなくて、おお神よ。そのうちニュースにならないことを祈るばかりだ。
松任谷正隆
まつとうや・まさたか 1951年東京生まれ。作編曲家。日本自動車ジャーナリスト協会所属。4 歳でクラシックピアノを始め、20歳の頃、スタジオプレイヤー活動を開始。バンド「キャラメル・ママ」「ティン・パン・アレイ」を経て多くのセッションに参加。現在はアレンジャー、プロデューサーとして活躍中。長年、「CAR GRAPHIC TV」のキャスターを務めるなど、自他共に認めるクルマ好き。