パリとポルシェ
音楽プロデューサーでありモータージャーナリストでもある松任谷正隆さん。無類のクルマ好きとして知られる松任谷さんのクルマとの深い関わりをエッセーでお届けします。今月のエピソードは、苦手だった飛行機と初の海外旅行、そしてパリで出会ったポルシェとの思い出について。
パリとポルシェ
僕は小学校のときに家族旅行で乗った初めての飛行機でちょっとしたトラウマになり、海外旅行デビューは30歳のときだった。
トラウマ事件……それは九州からの帰り、台風の影響で鉄道の橋が水に浸(つ)かったとかで列車が動かず、急遽(きゅうきょ)飛行機にキャンセル待ちで乗ることになったときのことだ。当然のことながら列車の人たちは飛行機に殺到し、僕たち家族はバラバラの席。僕は老人の会みたいなグループの中にポツンと座らされた。YS11は飛び立つと、台風の余波でゆらゆらと揺れ、僕の隣の老婦人が例の紙袋を取りだした。すると、周りの会の人たちは連鎖なのか、みんな袋を取り出し唸(うな)り始めたのだった。地獄だった。僕の隣の老婦人はよほど苦しかったのだろう、小学生の僕に「ぼうや、お願いだから運転手さんに言って止めてもらってちょうだい」と袋に顔を埋めながら懇願した。いくら小学生でも上空で飛行機を止めたらどうなるかくらい想像が出来る。頭の中はパニックになり、二度と飛行機には乗るまい、とそのとき心に誓ったのだった。
それから20年あまり、海外というものを知らずに一生を終えるのか、などと思っていた矢先に、2カ月のパリでの仕事が入った。しかも音楽ではなく、なぜだか役者の仕事だという。それが非現実に映ったせいなのか、僕は上の空で「やります」と答えていた。今だから正直に言うが、仕事自体には何の興味も無かった。ただ、海外に行く最後のチャンスだ、と思ったのだ。
旅立つその日までは本当に気が重かった。当日などは、成田に行くクルマが事故を起こし、行けなくなったらいいのに、なんてずっと考えていた。残念ながらクルマは予定通りに到着し、僕は夢遊病者みたいな感じでふらふらと撮影隊一行のグループに近づいていった。
飛行機は乗ってしまえばなんてことはない。ジャンボということもあって至極快適、袋を取り出す人なんてひとりもいやしない。CAの前の広いスペースで僕は小学生みたいにはしゃいでいた。それが最高潮に達したのは、機内のアナウンスが「ただいま、ドーバー海峡上空を飛行しております……」みたいなアナウンスがあったとき。いやあ、ついに僕は浦島太郎状態を脱出したぞ、という感動に包まれていた。数十分後、飛行機は高度を下げ、早朝の深い霧の中を降りていく。ふと霧の隙間から空港そばの小道を行く、黄色いヘッドライトのクルマが数台見えたときには本当に泣きそうになった。パリだ。憧れのパリだ。この決断をして本当に良かった、と。
初めてのパリは何もかもが新鮮だった。フランス語なんてしゃべれないくせに、ひとりで地下鉄に乗り、そしてタクシーにも乗った。多くのタクシーには助手席に犬が乗っており、最初はびっくりしたが、これが防犯の理由だ、と聞いてちょっと納得した。もちろん日本に帰ってからすぐに真似た。あとはたばこのポイ捨ても真似た。つまり浮かれて、何でもかんでも真似をした、ということだ。今思えば情けない限りだ。
2カ月というのは案外長く、撮影は案外暇で、僕のルーティンはなんとなく決まっていった。朝、滞在していたアパートのそばのスーパーでパンとハムを買い、食べてからひとりで地下鉄に乗り、サンジェルマンデプレまで行き、ドゥマーゴのテラス席でお茶を飲みながら、パリウォッチングをする。ファッションやら、クルマやら。それから目の前の大きなスポーツ店に寄り、買い物をするときもあれば、意味もなく歩き回ることもあった。毎日のように通ううちに、同じ通りの同じ場所に駐車されているポルシェが気になるようになった。それは他のパリのクルマたち同様に埃だらけであり、無造作に片足を歩道に乗り上げて停まっていた。それが停まっていないときは、どうしたのだろう、と気になるようになった。タルガ、という変わったモデルだったこともあって、威圧感が少なかったのだろう。僕はいつの間にかそのクルマを擬人化、いや自分自身を投影して見ていたような気もする。
撮影のことはあまりよく覚えていない。演出家にいくら演技指導されても、ちっともうまく出来なかったし、ピアノを弾くシーンがあって、そのためにキャスティングをされたはずなのに、それもちっともうまく弾けなかった。若い共演者やスタッフ達がずっと年上に見えた。いつも小さくなっている感じだ。なんだかあのクルマのように……。
2カ月を終え、帰国して早々、知り合いの中古車屋から電話がかかってきた。安いポルシェがあるんだよ。買わないか? と。興味本位だけで見に行って驚いた。パリにいたポルシェと色形まで全部一緒だったから。安いだけあってかなりのガタピシだったけれど、もちろんそれから一緒に暮らすことにした。運命なんてそんなものだ。
松任谷正隆
まつとうや・まさたか 1951年東京生まれ。作編曲家。日本自動車ジャーナリスト協会所属。4 歳でクラシックピアノを始め、20歳の頃、スタジオプレイヤー活動を開始。バンド「キャラメル・ママ」「ティン・パン・アレイ」を経て多くのセッションに参加。現在はアレンジャー、プロデューサーとして活躍中。長年、「CAR GRAPHIC TV」のキャスターを務めるなど、自他共に認めるクルマ好き。