一見銭湯、名物はワカメパーマ?親子二代で個性を紡ぐ、葉山の“気になる”理容店
神奈川県の逗子、葉山方面のドライブで要チェック! 葉山御用邸付近に不思議な光景が⋯ドライブ中にたびたび出くわす、一風変わった建物や看板。いわゆる「珍スポット」などと称されることもあるそれらは、一体どのようにしてそこに鎮座しているのか。本連載では、全国に点在する「ちょっとヘンテコな風景」を切り口に、その先に広がる、人や土地の面白さをお届けします。
白いのれんがなびく、銭湯のような店構え
JR逗子(ずし)駅からクルマで15分弱。国道134号沿いに、白いのれんがなびいている。大きな「け」の文字の左右には「男」「女」と記されていて、その姿はまるで銭湯のよう……。
この“思わず二度見してしまうロードサイドの風景”の正体は、「山口理容店」。
クルマを止める。店の前を通り過ぎる自転車のペダルをこぐのは、ほどよく日に焼けたTシャツ姿のおねえさんだ。足元はビーチサンダル。駐車場のすみでは、おじさんがせっせとサーフボードを磨いている。これが海の町・葉山なのか……。
店の窓に目をやる。「ザビエルカット致します」「ワカメパーマ始めました」という不思議な貼り紙を思わず二度見する。一体店の中ではどんな人が待っているんだろうと、混乱する取材陣は、気になる「け」ののれんをくぐり、おそるおそる店内へ。
店に入って最初に目についたのは、大きな鏡。木枠には彫刻があしらわれている。タオルやシャンプー・せっけんなどが置かれる棚もそれぞれに年季が入っていて、時の流れを感じさせる。店の中央に置かれた2台のバーバーチェアが、ここが理容店であることを主張している。
キョロキョロしていると、店の奥から今回の主人公である二人が出てきてくれた。山口理容店の3代目店主である山口昌男さんと、4代目の山口太郎さんだ。
上:4代目店主 山口太郎、下:3代目店主 山口昌男
気になるのれんの先では、創業100年を超える理容店の歴史と、親子関係や伝統をしがらみともなんとも思っていない、自由な二人の絆が紡がれていた。
“気になるのれん”が生まれた理由
山口昌男さん(以下、昌男):いらっしゃい。
——おじゃまします! 外に掛かってるお店ののれん、とってもユニークですね。でもぱっと見、銭湯と勘違いしそう。間違えて来るお客さんはいませんか?
昌男:しょっちゅういるよ。風呂桶提げて「やってますか?」って来るお客さんもいるくらい。
山口太郎さん(以下、太郎):海まで歩いて5分もないから、海水浴の帰りに寄っていこうっていう方もいますね。
——なぜ「け」ののれんを出すようになったんですか?
昌男:あれはね「男女性別問わず髪を切れますよ」ってことのシンボルとして掲げてるの。俺は30まで理容師、いわゆる床屋一本でやってきて、30歳になった年で美容師免許をとった。当時は女性は美容室へ、男性は理容室へ行くのが一般的だったから、一人で両方やれるってのはあんまいなかったんだよ。
——「理容師」と「美容師」で施術の内容が違うってことですか?
昌男:「理容」は頭髪のかりこみ、顔そりなどにより“容姿を整える”こと。一方で、「美容」はパーマ、結髪、化粧などの方法により“容姿を美しくする”こと。まったく別物なの。そのことをどう伝えるか考えたとき、ふと「銭湯ののれん」が思い浮かんだのよ。ほら、ひらがなの「ゆ」と「け」って形が似てるだろ? ちょっとやってみ。
——(書きながら)「ゆ」と「け」……たしかに。
昌男:で、あののれんを作ったの。「け(気)になる理容店」ってね。最初は茄子紺(なすこん)に白一色パターンだったけど、評判がよくて、今外にかかってる赤、白、青も作った。気づいたら店のシンボルみたいになったね。俺は76歳だから40年くらい前の話。
昌男:ちなみに、白地に赤と青ってのは、世界万国共通の床屋のシンボルカラーで、包帯と動脈と静脈を表しているっていう話があるよね。中世ヨーロッパでは、手先が器用な理髪師はなんでも屋とされていてさ、外科手術もできる医術の担い手でもあったの。
——それであの三色なんですね!
昌男:そもそも床屋の始まりって知ってる? 藤原采女介政之(ふじわら うねめのすけ まさゆき)って人がさ、始めたんだよね。南北朝時代に。
太郎:……お父ちゃん、ちょっと話がそれているかも。
のんべんだらりで30歳。ある出会いが生んだ、葉山の“変人”
——理美容の成り立ちも興味深いのですが、せっかくなので昌男さんのお話も聞きたいです。生まれも育ちもここ、葉山なんですか?
昌男:そうです。ずっと葉山の下山口。親父は10歳のときに両親がそろって亡くなって、親戚だったここの初代のところに養子に入ったの。あそこに写真が掛かってるでしょ? そこに写ってるのが、俺のじいさんとばあさん。後ろで白い服着てこっち見てるのが、俺のおふくろ。
——昌男さんのお父さんが婿養子として家業を継いだんですね。創業はいつになるんですか?
昌男:1920年(大正9年)。
——ということは、創業103年……!昌男さんはどういった経緯で理容師に?
昌男:中学校ではできが悪かったもんだから、親父が高校進学じゃなくてこっち(床屋)だって、思ったみたい。半ば無理やり理容の学校に入れられたんだけど、案外性にあってさ。頭は悪かったけど、理容の分野ではほとんどトップの成績で、気づいたら首席で卒業しちゃった。
——首席! 相当な努力をされたんですね。
昌男:いやいや、30歳までは本当にぼーっとしてたよ。当時は、リトルホンダっていう50ccバイクに乗って、一人で富士山まで遠征に行ったり、釣りも好きだからよく行ったね。一回、箱根の駒ヶ岳でエンストしたときは、遭難しかけて大変だったなあ。
——当時、なにか夢や目標ってありました?
昌男:うんにゃ、食っていければそれでいいと思ってた。ところが30歳のときに、転機が訪れたわけ。逗子で同じ商売している友人に「一緒に東京に勉強に行かないか?」って誘われて、当時一世を風靡(ふうび)してたヘアドレッサー、ヴィダル・サスーンの孫弟子の仕事を見せてもらったの。
4、5cmの小さなハサミだけを使ってね、頭部を区画分けして毛の流れを計算しながら、切っていく。「サスーンカット」って言って、今の理容師の技術の下地になってるんだけど。その技を目の前で見たとき、あまりの手さばきに雷に打たれちゃった。
昌男:そっからはもう理容業に夢中になってね。休みを返上して、渋谷のカットスクールに通ってひたすらサスーンカットの技術を学んだの。3年は生徒として教えてもらって、その後5年間は指導する側になって。親父のお店の手伝いと並行してたから、8年間はほぼ休みがなかったね。
——サスーンカットとの出会いが大きな転機になったんですね。
昌男:そうだね。あ、そうだ転機といえば30代の後半にもうひとつ大きな出来事があったな。
——?
昌男:このスキンヘッドだよ。当時『王様と私』や『荒野の七人』とかに出演していた映画俳優のユル・ブリンナーがかっこよくてね。俺もいつかしてみたいなって思ってたの。そしたら、30過ぎてたまたまハゲた。嬉々として剃り上げたら、親父がそれは怒ってね。「床屋で丸坊主のやつがあるか!」って。当時、スキンヘッドはお坊さんやガラの悪い人、あとは変人っていうイメージがあったから、珍しかったんだよね。
昌男:おまけにそんときの自分は、東京に通って、イッセイミヤケとかコム・デ・ギャルソンみたいなDCブランドを好んで着てて。当時の葉山にそんなやつ一人もいなかったから完璧に“変人”扱いだったよね。でも頭の毛を剃ってからは、失うものもなくなった。開き直っちゃったの。
——その頃に、今の昌男さんスタイルが出来上がったんですね。
昌男:そんな生活をしながら、45歳まで独身でぼーっとしてたら、今のかみさんと出会って、交際1週間で結婚しました。
——急展開!!
昌男:かみさんは台湾の人でね。最初は留学のつもりで日本に来て、エステサロンで働いていた。知り合いの紹介で出会ったんだけど、一緒にいて気楽でいられていいなあと思ってさ、所帯持とうか? って聞いてみたら「いい」って言うもんだから。それで結婚して1年後に太郎が生まれたんだよ。
太郎:やっと登場しましたね。
——45歳で結婚して、太郎さんが生まれて。仕事もノリにのっていたんじゃないですか?
昌男:せがれも生まれたし、家も買ったしで、働き通しだったね。でも朝7時から23時まで16時間ぶっ通しみたいな働き方をしてたら、倒れちゃって。診断結果は感染症の心内膜炎。即入院・即手術で、心臓に人工弁を2つ入れることになった。いまもそばで聞くとカチン、カチンって音がしますよ。
太郎 :「ターミネーターみたいだろ」って、よく言われましたね。当時は幼かったからそこまで大事だと認識してなかったけど、入院から帰ってきて手術痕を見たときに「うわ、すげぇ」となったのを覚えてます。
——それは心配でしたね……。入院手術を経て、昌男さんの中でなにか変化とかありました?
昌男:これで1回死んだも同然だから、拾った命に感謝して生きていこうと思ったかな。人工弁を入れてくれた先生に、これっていつか取り替えたりするもんなんですか? って聞いたらね、「生きてるうちは死なないから、気にしなくて大丈夫」ってさ。ほんと落語みたいな話です。
店の個性は継ぐものではなく、作り出すもの
ここまで、3代目・昌男さんの話を腕を組んで静かに聞いていた太郎さん。ベース(米海軍横須賀基地)でアメリカ兵士の髪を切っていたこともある彼は、理容師としての腕もセンスも持ち合わせている。「ぜひ4代目に!」とやってくるお客さんも後を絶たない。
太郎さんがした大きな変革は、18時から深夜にかけて営業をする「Night Barber」。この斬新な営業スタイルは、「週末は家族と過ごしたい」という働く子育て世代に人気だという。
ここからの主役は、太郎さんだ。同じ職場に父親がいる。なかなか珍しいシチュエーションだと思うが、同じ職をもつ者として、後輩として、息子として……太郎さんは、昌男さんのことをどう思っているのだろうか。
——太郎さんにとって、3代目はどんな存在ですか?
太郎:父親ではあるけど、親方という感じではないし……。なんだろう。強いて言うならば、友達みたいな存在なのかな。
——友達?
太郎:自分も一人の理容師として外で修業してきて、この場所に戻ってきたので。技術や知識の面ではかなわない部分もあるけど、それはお互い様というか。だから「対等な存在」って意味で「友達」が一番近いかもしれません。
——意外な回答でした。代々続く家族で商売をしている方々って、プレッシャーや親子間の葛藤があったりするのかなと、勝手に思ってました。
太郎:うーん、たとえば、和菓子屋や蔵元だったら、「伝統の味を守る」みたいな葛藤もあるかもしれません。だけど、うちの場合は、それぞれの技術と個性、つまりカラーがある。そしてそれはまったく別々のものなんです。
太郎:もちろん、「来てくれたお客さんを大事にする」っていうのは初代から変わらない考え方だと思います。そのなかでそれぞれが、お客さんに満足してもらうために技を磨いている感じですね。
——太郎さんは太郎さんなりのカラーを磨いているんですね。
太郎:2020年にお店のホームページやYouTube、SNSを始めたのもその一環で。発信する情報を見て世界中、日本中からこんな片田舎にお客さんが来てくれる。それが嬉しくもあり、面白くもあります。
お店の前を走る国道134号はドライブの他、サイクリングやツーリングを楽しむ人々が大勢訪れる。
——昌男さんをライバル視するということもないですか?
太郎:うーん、ないですね。もともと仕事はうまいと思っているし。もちろん自分のほうがうまいところもあるけど、お客さんは「父ちゃんじゃなきゃダメだ」と言う人もいるし、逆もある。それはお客さんが決めることだから。
——なるほど、あくまでも二人の関係はフラットであると。
太郎:でもこの前、YouTubeの再生回数を自慢してきたときはさすがに少しムカつきましたね。毎朝チェックしてるんですよ。「太郎はまだ何万だけど、おれはもう何十万回再生いってる」って(笑)。
コロナ禍に始めたYouTubeのチャンネル登録者数は2万5000人超え(2023年5月時点)。海外からのコラボ依頼も次々舞い込むという。
——ライバル視してるのは昌男さんなのかもしれませんね。ちなみに太郎さんは今後の目標とかありますか?
太郎:実は目標っていうのも、あんまりなくて。というのも、親父の横で髪を切ることがひとつの目標というか、夢だったから。もうかなってるんですよね。「Night Barber」を面白がってくれる人もいるし。だから、今はとにかく、目の前の一人ひとりのお客さんを楽しませる。これに尽きると思います。
僕、ピアノも弾くんですよ。マッサージが終わった後や、スチームパックをしているお客さんにリラックスしてもらうために、演奏しています。
——昌男さんはここまで聞いてみていかがでしょう? 父親として、先輩として、なにか助言したくなるときはありませんか?
昌男:そりゃたまにはあるけど、言わないのが筋。カラーが違うからね。俺はせがれに口出しすることはないし。逆もそう。親父も俺に対して「ああせい、こうせい」って言わなかったですから。自分のスタイルを貫けばいいと思っていますよ。
取材を終えて
キャリア60年を超える昌男さんと、山口理容店の温故知新に挑み続ける太郎さん。
博学で物知りである昌男さんは、いまでも学びの姿勢を忘れない。インタビュー中、正確な年号と固有名詞がばしばしと飛んでくるのを必死でキャッチしながら考える。やってくるお客さんは、昌男さんの腕はもちろんのこと、この話術にも魅せられているのかもしれない。
一方の太郎さん。店を後にする前、もし5代目がいたら後を継がせたいですか? と余計なお世話にも思える質問をしていた。なんだか許してもらえるような気がしたから。すると太郎さんはこう答えた。
「親父が自分にしたように、何も言わないと思う。たとえ継いでほしいと思ったとしても」
昌男さんは「友達」という表現の裏にも、きっとたくさんの感情があるのだろう。だけども、終始伝わってきたのは昌男さんに対する敬意だった。
「父」とか「息子」である前にひとりの人間がここにいて、一人前の職人がこの場に立って仕事をしている。「ただそんだけ」と言わんばかりに、二人は今日もハサミを持ってお客さんを前にしているはずだ。