サイドミラーの向こう側 

長野・軽井沢の名物看板「ハチひげおじさん」の謎。彼はなぜミツバチをまとったのか。

ナビが知らない、道ばたの人生哲学。#2 荻原養蜂園

2023.08.14

文=風音/ 撮影=小林直博 / 編集=日向コイケ(Huuuu)

2023.08.14

文=風音/ 撮影=小林直博 / 編集=日向コイケ(Huuuu)

1年点検を受けると、だれにでもチャンス

長野県・軽井沢〜佐久エリアをドライブしていると目に飛び込んでくる、謎の看板。無数のハチをひげのようにまとい、微笑むこの男性は一体どんな人物なのでしょうか………。

本企画では、ロードサイド上でたびたび出くわす「ちょっとヘンテコな風景」を切り口に、その先に広がる人や土地の面白さをお届けします。


否が応でもドライバーの視界に入る、ハチまみれのおじさんの看板…

長野県軽井沢町にあるハチひげおじさんの看板

今回やってきたのは、長野県・軽井沢町。標高約1,000mの高原に位置するこのエリアは、県内でも特に自然が豊かな地域で、別荘地としても知られています。そんな軽井沢エリアに点在している、インパクト抜群な看板をご存じでしょうか?

長野県軽井沢町にあるハチひげおじさんの看板、寄り

「ハチひげおじさん」。読んで字のごとく、無数のハチをヒゲのようにまとっている男性の正体は、荻原養蜂園の二代目である荻原義三さん。その圧倒的な存在感がうわさを呼び、メディアでもたびたび話題となりました。
しかし、ただのクセ強キャラクターと侮るなかれ。その背景には、家業の合理化や改革を推し進め、着実な成長へと導いてきた敏腕経営者としての素顔がありました。このユニークな看板も、その販売戦略の一つだったのです。

ハチひげおじさんの看板の横でピースサインをするハチひげおじさん

80歳の今でも現役バリバリの義三さんに、まずは荻原養蜂園の養蜂の仕組みや特徴について教えてもらいました。

一念発起で東京ドーム1個分の土地を購入? 時代の先を読み、長野県内に絞った養蜂にシフト

ハチの巣箱を持つハチひげおじさん

それじゃあ、早速皆さんに巣箱の説明をしていきますね。

——義三さん、そんな軽装で大丈夫ですか? すごい数のハチが飛んでますけど……。

あぁ、ハチっていうのはね、扱いを丁寧にしてやると大人しいものなんです。皆さんは刺されたらちょっと痛いかもしれないですけど、私なんかだと、……ほらね。

おもむろに一匹のミツバチを手に取り、針を頭に刺す義三さん。

おもむろに一匹のミツバチを手に取り、針を頭に刺す義三さん。

——えっ、今、ハチの針を頭に刺したんですか……!?

私はね、もう免疫ができているから、痛みもそんなに感じないんですよ。この年だと、関節が痛くなってくるでしょ? そこをハチの針で刺してやるとね、すーっと脚が軽くなるんです。針治療ならぬハチ治療です。

ハチに刺された箇所を笑顔で指さすハチひげおじさん

※絶対にまねしないでください

——(ちょっと赤くなってるけどなぁ)ちなみにその巣箱1つあたりに、どれくらいのミツバチが入っているんですか?

1段あたり2万匹ほどですね。うちは巣箱を4〜5段重ねるから、この1セットで10万匹くらい。でも、誰でもこれだけの数を増やせるかと言ったら、そうではなくて。普通の養蜂家さんだと2段〜3段が一般的。うちよりハチを持っている農家は、日本には他にいないと思います。増やすのはもちろん、移動するのが大変ですから。

積まれたハチの巣箱

——圧倒的な数が荻原養蜂園の特徴なんですね。でも、なぜ「移動」するのでしょうか?

花の開花時期に合わせて場所を変えることで、ハチミツの集荷量を増やすんです。それこそ20代の頃は、冬になるとよく千葉の房総・富浦へミツバチを連れて行ってね。気温が上がるのに合わせて、だんだんと移動しながらハチミツを採っていたものです。
でも養蜂を始めて10年ほど経った頃、ここら辺り一帯の開発が盛んになって、蜜源のトチの木が切り倒されました。温暖化の影響で、各地の開花時期がずれたり花が咲かないことにも気が付いて。このままではまずいと思い、一念発起で東京ドーム1個分くらいの山林を買い取って、トチの植林を始めたんです。

植林から花が咲くまでに10年、ハチミツが採れるまでは16年かかりましたが、今では長野県内のみで採取から生産を一貫して行っています。

巣箱のある森の風景

——温暖化の影響でハチの数が減っている、というのは昨今ニュースでも耳にしました。やはりここでも影響が?

実はこと長野でいうとプラスに働いている面もあって。少し前まで、軽井沢の冬はマイナス20℃度を下回っていたので、毎年移動させる必要がありました。でも今は温暖化の影響で春先までミツバチが生きていけるんです。そういった意味でも長野県内のみに絞ったことは幸運でした。

米農家、レタス農家、養蜂家。「儲かる」流れを読んで、転身を続けてきた荻原親子

熱く語るハチひげおじさん

——荻原養蜂園の歴史と、荻原さんご自身についても知りたいです。義三さんは、荻原養蜂園の二代目に当たるんですよね。

そうです。うちはもともと農家で、父親が田んぼをやっていました。でも、ここは高原地だし、浅間山の火山灰の影響もあって、土壌が良くない。つまり品質の良いお米が作れない。だから、養蜂を兼業していたんです。

——もともとは兼業としてスタートしたんですね。

荻原養蜂園が始まった昭和14年は、日中戦争の真っ只中。親父が仕事で上京した際、たまたま電車で乗り合わせた人たちが「今はどこにも肥料が売ってない」と話しているのを聞いたそうなんです。肥料は火薬の材料になりますから。
でも、長野の農協には肥料がまだたくさん残ってたから、親父が全部買い占めたんです。そうしたら、翌年に農協さんが「肥料を買い戻したい」ときたもんだから、そりゃあ儲けたみたいで。

——すごい強運! 先見の明がある方だったんですね。

「人と仕事をするなら、2倍のお金をもらわないと俺はやらない」って断言するくらい、豪快な人でした。こんなエピソードが他にもたくさんあって……。
戦後、小田原の農家の方に「信州ならレタスを作ったほうがいい。高原地ならレタスがよく育つし、進駐軍(GHQ)がよく買うだろう」って言われたそうなんです。それで、その言葉を信じて、昭和23年からレタス栽培を始めたんですよ。

浅間山の麓にある、荻原養蜂園。

浅間山の麓にある、荻原養蜂園。

もともとこの地域は養蚕が盛んだったのですが、親父が周りの桑農家の息子をそそのかしてレタス栽培を始めたから、当時はすごく怒られたみたいでね。でもふたを開けてみればこれまた大当たり。1年後には年収が200万から600万になった。それで、次の年には桑の畑を潰して、みんなでレタスを作り始めたんです。

——軽井沢で「高原レタス」が盛んなのは、お父さんの影響かもしれないんですね!? その後、養蜂専業になったのはなぜでしょうか?

先ほども言った通り、養蜂自体は先代の頃から小さく兼業していたでしょう? 私が20歳のとき、ご近所に養蜂で大成功した方がいるってことで、父の言いつけで、その人の元で1年修業することになったんです。そうしたら、たまたま自分の働いた年が当たり年で、うちの親父がレタスで年間600万円儲けていたのに対して、その養蜂家の方は6000万円も儲けちゃった。

笑顔のハチひげおじさん

——ただでさえレタスで儲けたのにその10倍!それは夢ありますね。

それで、親父のところに帰って、「悪いけど百姓はもう辞めた!」って言ったんです。レタス農家も悪くないけど、こんなに儲かるなら、農業はやってられないってね。
もちろん、いきなり切り替えるのは難しかったから、10年かけて少しずつ養蜂の事業を育てていきました。ちょうど私が35歳くらいの頃に、海外のレタスがどーんと入ってきたから、レタス一本だったらちょっと危なかったかもね。

——確実にお父さんのイズムを継いでいますね。事業を成功させた一番の要因はなんだったと思いますか?

やっぱり営業ですね。長野県内はもちろん、群馬の高崎から、静岡の熱海、それから東京のほうまで1日300㎞は車を走らせて、行商しました。西武百貨店や国鉄、銀行といった大企業にも卸しましたね。大元に収めれば、従業員の給料から勝手に天引きされるから、集金の手間が省けるんですよ。その頃で年商1億円は超えていたんじゃないかな。

とにかく合理化を求める、荻原さんの経営術。「ハチひげおじさん」の看板もその一環だった?

道沿いで目を惹くハチひげおじさんの看板

時代の流れの先を読み、儲からないことはやめる。お話を聞くうちに、「徹底した合理化」が、荻原養蜂園の成長の秘訣だったことがわかってきました。「ハチは友達」とメディアで語ってきた義三さんのキャラクターとはかけ離れているような……? あの「ハチひげおじさん」が生まれた背景も探ってみましょう。

——あの有名な「ハチひげおじさん」は、どういった経緯で生まれたんでしょうか?

あれはね、テレビの取材がきっかけなんです。担当ディレクターに「何か変わったことをしろ」なんて言われてね。そんなこと急に言われてもと思いつつ、ディレクターが立派なヒゲを生やしてたもんだから「じゃあハチでヒゲでも作ろうかねぇ」って言ってみたら、それが採用されちゃって……。

——テレビの無茶振りがきっかけだったんですか!

ミツバチには、女王蜂に集まる「分蜂」という習性があってね。それをうまく利用できないかなぁと試したら、思いのほかうまくいったんです。養蜂家であることのアピールとして、これ以上のパフォーマンスはないじゃない。試しにテレビに出たときの写真を看板にしたら、お客さんがバンバン入って、「これはいいぞ」って(笑)。

10万匹のハチをまとった荻原さん。

——偶然の産物にしてはすごい定着っぷりですよね。今はどれくらいの数の看板を出しているんですか?

コロナの影響でお店をいくつか閉めたからだいぶ減ったんだけど、多いときで25枚はあったね。看板を1枚立てるのに月5万円かかっていたから、毎月125万円は看板広告に使ってた。

——看板の設置箇所はどうやって決めていたんですか?

実はね、りんごの直売所がヒントになったんです。「おたくはどうやって看板を出してるんですか?」って聞いたら、「5枚ずつ立てる」と言うわけ。お客さんは、1つ目の看板でまず「店がある」と思うでしょう。次の看板で「あと数百メートルか」と思う。それが続いていくと、5つ目の看板で「じゃあ行ってみるか」と思うわけ。

——すごい。視線を誘導するわけですね。

観光バスなんか40人くらい乗っているから、1台で20万円くらい売れる。「看板って効果があるんだな」とわかってからどんどん増やして、最終的に25枚になったんです。

荻原養蜂園では商品も直接購入できる。

荻原養蜂園では商品も直接購入できる。

はちみつの商品画像。巣ごとハチミツを味わえる、コームハニー(巣蜂蜜)

名物は巣ごとハチミツを味わえる、コームハニー(巣蜂蜜)。

人よりハチのほうが儲かる。「欲張り」な義三さんが目指してきたこと

荻原養蜂園の事務所の風景

——あの看板も、合理化を追求して設置されていたんですね。

養蜂は手間がかかるから、とにかく「手」が必要なんですよ。だから、いかに合理化するか考えていました。それに、私は欲張りだから、ミツバチもたくさん持っていたい。数がいれば、それだけ生産性が上がって儲かりますから。

——60年以上「儲かる」ことを追い求めてきた義三さんは、次に何を考えているのでしょうか?

もっと儲かりたい!……と言いたいところだけど、最近は養蜂の技術や魅力を後世に伝えていくことについて考えていますね。養蜂家は職人だから、ある程度は親方に教わらないといけない。でも今は「教わらなくてもできる」と思う人が多いんです。
昔、うちで働いていた者が「ネットを見れば、最先端の養蜂がわかる」と言うから、「そうかい、じゃあやってみろ」と1300箱のミツバチを預けたことがあるんです。そうしたら翌年にはほぼ死んでしまってね、50箱しか残らなかった。

——1300箱がほぼ全滅……! そこまで実践させる姿勢がすごいです。

ネットと現実が違うというのは、実際にやってみないとわからないんです。彼には「養蜂は一朝一夕で身に付くものではないんだよ」と伝えてね。そこからまたミツバチを増やして、ここまで立て直しました。

ハチひげおじさんの横顔

——義三さんはこれまで、たくさんのハチとともに、社員や後継者候補も育ててきたと思います。人間とハチ、どっちが好きですか?

うーん、ハチのほうが儲かります。管理もしやすいし、増やすのも簡単。人間っていうのは、こちらがどれだけ教えようとしても、受け手がちゃんと受け取らないと伝わるものも伝わらない。優秀な人を育てるのも、増やすのも大変だね。
でも、人がいないとハチが育たない。そして、ハチがいないと植物が育たない。今は温暖化の影響でどんどん花も減ってきているし、養蜂をちゃんと次の世代へ引き継いでいきたいですね。

取材を終えて

巣箱から飛び立つハチ

「ハチひげおじさん」という、強烈かつ愛されるキャラクターの裏には、荻原義三さんというしたたかな一人の経営者の顔がありました。
「ハチは儲かる」と言い切る豪胆さとパワーを持ち合わせつつも、合理性と戦略に裏付けられた道筋をきっちり立ててきた義三さん。時代の先を読み、長い年月をかけて長野の山麓に植林を続けてきたからこそ、今日も荻原養蜂園には無数のミツバチが飛び交っています。
この風景が未来へ続いていくよう、義三さんの「欲張り」な養蜂の道はこれからも続きます。

はちひげおじさんの荻原養蜂園

長野県北佐久郡軽井沢町追分吉野坂下405-2
TEL: 0267-46-5012
営業時間:9:00~17:00
定休日:不定休
荻原養蜂園ウェブサイト

地図で見る

この記事はいかがでしたか?

関連する記事Related Articles