伊豆半島で「あの世」を観光? 親子が紡ぐ地獄のテーマパーク、創意工夫の37年
ナビが知らない、道ばたの人生哲学。#5 伊豆極楽苑静岡県・伊豆市の中央部に位置する伊豆縦貫道の月ケ瀬ICからクルマで1分。自然にあふれる国道136号を走っていると、「伊豆極楽苑」と書かれた看板を持ったにこやかな鬼が現れる。“極楽”なのにいったいどうして鬼なのか? 「地獄」ののぼりがはためく、その建物の正体とは……。本企画では、ロードサイドでたびたび出くわす「ちょっとヘンテコな風景」を切り口に、その先に広がる人や土地の面白さをお届けします。
鬼なのにピースにスマイル。そこは地獄か、極楽か?
今回の舞台となるのは静岡県・伊豆市。南部は天城(あまぎ)連山に囲まれ、西側は駿河湾に面する観光都市です。日本屈指の温泉街であり、川端康成の代表作「伊豆の踊子」の舞台としても知られています。
東名高速・沼津ICから南下する伊豆縦貫道の終点、月ケ瀬ICを出てすぐのところに一風変わった光景が姿を見せます。
それがこちら。「あの世」や「地獄」と書かれたのぼりがはためき、満面の笑みでピースをする真っ赤な鬼。奥にある建物には「地獄極楽めぐり」と大きく書かれています。
地獄と極楽、相反する二つの言葉を掲げるこの場所の正体は「伊豆極楽苑」という観光施設。館長の青鬼丸(あおおにまる)さん、案内役の華扇(かせん)さん、彰洋(しょうよう)さんらによって運営されています。
いったい地獄極楽めぐりとは何なのか。どういった経緯でこの伊豆の地に建てられたのか。優しい笑顔で迎え入れてくれた華扇さんと彰洋さんにお話を伺いました。
そうだ地獄を作ろう。家族総出で地獄のフランチャイズ計画
伊豆極楽苑・案内人の彰洋さん(左)と華扇さん(右)。
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伊豆極楽苑とは、どんな施設なんでしょうか?
彰洋さん(以下、彰洋):だいたい「あの世のテーマパーク」と紹介していますね。館内では三途の川や地獄、極楽などをジオラマで再現しており、あの世を疑似観光することができます。昭和61年の5月5日に開園したので、今年で38年目です。
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かなりの老舗ですね。どのような経緯で建てられたのでしょうか?
華扇さん(以下、華扇):この施設を建てたのは義父、つまり私の夫である青鬼丸の父ですね。彼は40歳のとき交通事故に遭い、生死の境をさまよう大けがを負ってしまいました。なんとか一命は取りとめたのですが、その体験をきっかけに宗教や死後の世界に興味を持ったそうで。
奥さんと四国八十八ヶ所巡りに行ったり、いろいろと熱心に勉強した結果、「あの世のことをわかりやすく伝える」というコンセプトの施設を作ろうと考えたそうです。ただ名前に「地獄」と入っていると不吉でお客さんも来ないからという理由で、「極楽苑」になりました。
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お義父さんは何を生業(なりわい)としていた方なんですか?
華扇:いろんな仕事をしていたようです。絵を描いたり、習字の先生の免許を持っていたり。とにかく器用な人でしたね。極楽苑に飾られている展示物や案内書は、その多くが義父によるものです。
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多く、というとお義父さん以外の方も展示物や装飾品を作っているということですか?
華扇:はい、義父とその息子兄弟3人で作りました。館内にある絵の一部は長男である夫によるものです。舞台設備は次男が、電気系統は三男が、という感じで。私もペンキ塗りは手伝っていました。
殺生や偸盗(ちゅうとう※ 盗みのこと)などを行うと落ちる叫喚地獄。罪人たちが鬼に釜茹でされ泣き叫んでいる。
彰洋:祖父は極楽苑をフランチャイズ経営して、老後を過ごそうと考えていたそうで。実際、ここを建てた1、2年後に、朝霧の方に2号店を作ったんです。ただそちらは立地的な問題で展示物がカビてしまったり、経営がうまくいかなかったりで1年も経たずに閉館となってしまいました。
——すごい計画ですね。でも栄えある1号店をなぜこの伊豆の地に?
華扇:施設の建設地を探していたとき、偶然お声がけいただいたのがきっかけです。昔は隣にドライブインがあったので観光バスも多くて、団体客向けの観光施設として併設されることになりました。
ただ建てた当初は「宗教色が強すぎる」という理由でお客さんが思うように入らず、開園当時から危機の連続で。収益をあげる見込みが立たず冷房も入れられなかったので、夏場はお客さんから「本当に地獄だ」と言われることもありましたね。
創業当初の伊豆極楽苑。(提供:伊豆極楽苑)
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お客さんは月にどれくらい来るんですか?
華扇:繁忙期で月に1,000人くらいですかね。夏休みとGWが一番多いです。でもそれ以外の時期は片手くらいしか人がこないときもあるし、本当にどうしようという感じなんですけど、あんまり考えても辛くなるだけなので。
嫁いだ&生まれた先は「地獄」だった。気づけばあの世の案内人に
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案内人であるお二人のお話も気になります。
話しぶりから薄々感じていたのですが、もしかしてお二人って……
。
華扇:はい、実の親子です。伊豆極楽苑は夫と私、息子の3名で運営しています。
——華扇さんは伊豆極楽苑に勤める前は何をされていたんですか?
華扇:私はもともと愛知の人間で、名古屋の証券会社で働いていました。青鬼丸とは知人の紹介で出会って、結婚を機に証券会社を辞めて伊豆へ移ってきたんです。
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ということはその頃には極楽苑の計画は立ち上がっていたわけですよね。周囲に結婚を反対されたりはしませんでしたか?
華扇:私はそこまで抵抗なかったんですが、周りには反対されました。当たり前ですよね。「証券会社を辞めて地獄のテーマパークを作る」なんて理解してもらえるわけもないし。
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そんな中でも青鬼丸さんについていこうと思った決定打は?
華扇:決定打? うーん、なんでしょう。こう言うと元も子もないけど……運命ですね。
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運命。その頃から華扇さんが案内人をやる予定だったんですか?
華扇:いえ。当初は「受付をするだけでいい」と言われていました。でも開園して1週間もしたら義父からプリントを渡されて「これを暗記して案内人をやりなさい」と告げられたんです。
地獄についての知識なんてなく、人前で話すのも苦手だったのですが……。生きていくためにはやるしかないと腹をくくって、京都へ尼さん修行に行ったり、いろいろと勉強をしました。案内人として立つ以上、お客さんからの質問に答えないといけないので。
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ぶっちゃけ、逃げ出したくなるときはありませんでしたか?
華扇:そんなことを考えている余裕はなかったですね。罪人を地獄に運ぶ車を火車(かしゃ)と呼ぶのですが、文字通り実生活も‟
火の車”
でしたから。でもなんとか今まで潰れずにやってこれているので、お客さんには本当に感謝です。
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地獄の勉強をするのは楽しかったですか?
華扇:楽しかったというか、知らないことばかりで興味深くはありました。ただ私は証券会社に勤めていたので、株の動きにはそれ以上に興味がありますけど(笑)
。
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この施設が存続している理由が少しわかった気がします。彰洋さんはどういう
想い
で案内人を継がれたんでしょうか。
彰洋:流れですね。私が生まれた頃にはすでにこの場所がありましたから。初めて受付に立ったのはたしか小学5年生。説明文は自然と身に付いていたので、母がいないときは代わりにお客さんを案内してました。学校もここから通ってましたし、この仕事は家業みたいなものです。
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もしかしてこの場所はご実家でもあるんですか?
彰洋:事務所部分が住宅になっているんです。同級生の親も「あぁ、あの地獄の子ね」という感じで。
——地獄の子……! 当時どんな心境だったんでしょうか?
彰洋:うーん、そういうもんだ、としか言いようがないですね。小、中学校の友人は普通に遊びに来てましたし。でも高校でできた市外の友人を招待したら、建物を見た瞬間「なんだこれ!」ってたまげてましたね。
地獄でなぜ悪い。物語を伝えていくことの面白さ
殺生を犯した者が落ちる等活地獄の鬼たち。ここでは亡者同士で殺し合いを強要される。
——「あの世のことをわかりやすく伝えるために作った」とのことですが、なぜあえて“地獄”にフォーカスしたのでしょうか?
彰洋:
地獄のほうが面白いからじゃないですかね。実際、極楽往生について書かれた仏教書である「往生要集(おうじょうようしゅう)」でも、地獄の描写にかなりのページ数が割かれているんです。庶民の間で広がったのは極楽や天上界のことより、地獄の話ばかりだったそうで。道徳の教科書としても「悪いことをすると、こんなに酷(むご)い仕打ちが待っているんだよ」という内容のほうが向いていますしね。
——なるほど。子供を連れてくるお客さんも多いんですか?
彰洋:多いですね。37年間も続けていると幼少期に来たお客さんが親となって、また自分の子供を連れて来ることもあったり。そうやって親から子へ、世代を超えて受け継がれていくのは嬉しいですね。
閻魔大王の前に置かれた懺悔帳。訪問者はここに自らの罪を書いて懺悔する。
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他にはどういう方が来るんでしょう。
彰洋:本当に千差万別です。宗教学を学んでいる方や美大生、アート系の方もよくいらっしゃいます。昔、映画監督の宮藤官九郎さんが地獄をテーマにした映画を撮影している折に寄られたこともありました。
他にも、身近な方が亡くなったのをきっかけに興味を持った、という方もおられます。展示や解説を読みながら「今おじいちゃんはここにいるんだね」とかお話ししていたり。
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幅広い客層ですね。
彰洋:地獄には多くの人が興味を示すような「エンタメ性」があるんだと思います。「来世」と聞くと、今の生活の延長線上にあるというか、どこか身近に感じられる。それにホラーコンテンツとしても刺激がありますよね。苦しめる手段があの手この手と考えられていて、人間の想像力って本当に豊かだなと。
地獄極楽めぐりの前に、彰洋さんによる「あの世」の解説を受ける取材班。
——地獄の面白さを伝える際に意識していることはありますか?
彰洋:見たままを感じてもらいたいので、あまり主観的なことは言わないようにしていますね。あとはなるべく明るく、朗らかにお話しすること。地獄だからといって、怖い顔で説教のように話されても引いてしまいますから。
華扇:私もあまり宗教っぽさが前面に出ないようしてます。展示物や解説の内容は仏教に由来するものですが、偉そうに「ああしなさい、こうしなさい」と言われても面白くないじゃないですか。だからメッセージ自体は「悪いことをすると閻魔様に怒られますよ」程度でいいと思ってます。
それでお客さんが帰るときに地獄に興味を持ってくれたり、「悪いことはできないな」と思ってもらえれば御の字というか。あとは……やっぱりお客さんを大事にすることですかね。
伊豆極楽苑のこれから
館内で販売されているオリジナルグッズ。閻魔様や人気の鬼があしらわれたTシャツやバッグは彰洋さんがデザインを担当。通販でも販売中。
——ゆくゆくは彰洋さんが館長の座を継ぐと思うのですが、この施設を受け継いでいく上での心構えはありますか?
彰洋:現状維持でやっていければと思っています。あまり僕の代で変化を加えようとは思ってはいなくて。それこそ37年も続けていると、建物も展示物が少しずつ老朽化してくるんですよね。雨漏りしたり、隙間やひび割れが出てきたり。細かい修繕は日々やっていますけど、致命的な壊れ方をしたらもう元には戻せないんです。
実際、東日本大震災のときに亡者の腕や足が壊れてしまって。そのうち何体かは父が直したのですが、「そのほうが地獄らしいだろう」とそのまま折れたままにしているものもあります。本当に日々、地獄と隣り合わせですが、工夫しながらできる限り長く存続させていきたいですね。
——維持管理は大変だと思いますが、地獄と同じようにいつまでも不滅でいてほしいです。最後にお二人から、現世を生きる人に向けて伝えたいことはありますか?
彰洋:少しでもあの世のことを意識して生きてもらえると嬉しいですね。「あの世なんてないよ」で終わらせるのではなく、「もしかしたらあの世はあるかも」ぐらいの心持ちでいたほうが、現世の過ごし方も良いほうに変わるんじゃないかなと思います。
華扇:幸い「あの世がない」ということはまだ立証されてませんので、この施設があるうちに、ぜひ事前準備にご来場いただけると嬉しいです。極楽を感じられる観光地はたくさんありますけど、地獄を感じられる場所はなかなかありませんので。
物語を絶やさず伝えていく
世にも珍しい「地獄のテーマパーク」に込められた願い。それは、死後の物語を通じて、今をより良く生きてもらいたいというもの。親子3代で受け継いできた伊豆極楽苑には、そんな思わぬ優しさが秘められていたのです。
誰しもが憧れる「極楽」ではなく、あえて敬遠されそうな「地獄」に娯楽性や芸術性を見いだし、独自の解釈でその面白さを人々に伝えていく。地獄のジオラマや絵や文章、そして案内者の説明一つひとつにお客さんを楽しませるための創意工夫が凝らされていることを知りました。そんな型破りな視点や経営努力に、伊豆極楽苑が愛されるゆえんを見た気がします。
我々に学びを与えてくれたこのやさしい地獄が、いつまでも伊豆の地に残り続けてくれることをただ願うばかりです。
伊豆極楽苑
静岡県伊豆市下船原370-1
TEL:0558-87-0253
営業時間:10:00~16:00
定休日:水曜日、木曜日(祝日の場合は開館) 。臨時休業あり
HP