懐かしの「昭和カルチャー探検隊」

モト・コンポ、AR50、チャンプRS…怒涛のバイクブームの立役者たち

愛すべき昭和の原付物語 1980年代編

2023.01.07
2023.01.07
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一般的に1980年代を振り返るとき、「バブル時代」というひと言で片付けられてしまいがちだ。ちなみに現在、それは「1985年のプラザ合意から1991年までの期間」と定義されることが多い。解釈によって微妙な違いはあるものの、そう大きなズレはないようだし、実際に当時を生きた自分などは「なるほどね」と納得してしまったりもする。この定義に照らすならバイクのバブルは、ちょうど5年早く来て、5年早く収束したことになる。ただ、個人的にはバブルというより「長い夏休み」だった、ように思えてならない。まるで鈴鹿8時間耐久レースみたいに長くて暑い、夏のひと時。その日差しを受けてキラキラと輝いていた、80年代に生まれたあのモデルたちを思い返してみよう。

躍進するスクーター市場
そして怒涛(どとう)のバイクブームへ

80年代のバイク市場を振り返るとき、忘れてならないのが「バイクブーム」だ。なにしろ原付から大排気量車まで含めた二輪車生産台数の年間合計は、1970年に約295万台だったものが1980年には約643万台へと倍以上に跳ね上がった。このうち原付だけを抜き出してみると1970年の約90万台に対し、1980年は約249万台、バイクバブルが崩壊し始めた1985年でも約201万台を記録している。この牽引(けんいん)役となったのが、もちろんスクーターだ。

70年代に「ラッタッタ」ことロードパルやパッソルによって切り開かれたファミリーバイク市場は、メーカーの思惑どおり女性ユーザーの開拓に成功し、バイクブームの勢いそのままに販売台数を伸ばし続けた。当然スズキもほどなく参戦、次々とニューモデルが生み出されていく。そんな群雄割拠の市場に、80年代の幕開けとともにホンダが送り出したのがタクトだった。

70年代編の最後でも触れたが、当時のファミリーバイク市場では「スクーターであるか否か」が論争になるほど大きなポイントとして注目されていた。タクトは、そんな議論に終止符を打つ格好ともなる。すなわち、両足を揃えて乗るステップスルーで、外装はフルカバード。セルひと押しでエンジンが目覚め、アクセルをひねるだけで走り出せる無段変速、市場の方向性はスクーターで決まったのだ。

スクーター

1980年発売ホンダ・タクトの画像

1980 ホンダ・タクト

「打倒パッソル」の急先鋒であると同時に、スクーター市場の方向性を決定づけたモデル。
当時価格:118,000円(セル付)

1981年発売スズキ・ジェンマの画像

1981 スズキ・ジェンマ

女性ユーザーを意識したファミリーモデルが激増するなかにあって、落ち着いた高級感を強調。
当時価格:139,000円

1987年発売ヤマハ・チャンプRSの画像

1987 ヤマハ・チャンプRS

当時、活況を呈しつつあった「スクーターレース」を意識し、3ステップポジションを採用するなどスポーツマインドあふれるモデル。
当時価格:144,000円

1988年発売ホンダ・ディオの画像

1988 ホンダ・ディオ

レースも意識したスポーツスクーターでありながら、メットイン機能も実現。進化の完成型ともいわれるモデル。
当時価格:126,000円

7.2㎰(馬力)の最高出力に6速ミッション
原付の高性能化が止まらない!

一方、オンロードやオフロードは本格志向がより強まり、正常進化の高性能化とともにどんどんと先鋭化されていく。この傾向は原付よりも排気量の大きなモデルほど顕著で、最終的にはサーキットを走るレーシングマシンそのままのイメージを持つモデルへと発展、ほどなくレーサーレプリカと呼ばれるようになる。この結果、80年代の半ば以降は子供たちがバイクの絵を描くと、当たり前のようにカウリングが付くようになったと笑い話になるほどだった。

では、そうした流れをオンロードモデルで振り返ってみよう。

まず思い出してほしいのが1979年にホンダがリリースしたMB50で、このクラスとしては同社初となる2サイクルエンジンがクラス最高値の7psを叩き出した。しかし1980年、スズキはRG50Eの7.2psで最高出力の記録を覆す。しかも、翌年モデルではクラス初採用となるANDF(アンチ・ノーズ・ダイブ機構式フロントフォーク=ブレーキ時のフロントフォークの沈み込みを抑制し、姿勢を安定させる機構)まで装備していた。

1981年4月には、沈黙を続けていたカワサキが同社初の原付となるAR50をリリース。さらに、この2か月後にヤマハは原付初の水冷エンジンを搭載したRZ50を送り出した。これを受けてホンダが水冷のMBX50を1982年に出すと、同年にスズキは原付レーサーレプリカともいえるRG50Γ(ガンマ)をデビューさせる。そして1987年、ホンダNS50Fのデビューをもって80年代オンロード原付は一つの頂点を極めたのだった。

オンロード

1981年発売カワサキ・AR50の画像

1981 カワサキ・AR50

カワサキ初の原付はビッグバイクのカワサキというイメージを覆す、本気のスポーツモデルだった。
当時価格:153,000円

1981年発売ヤマハ・RZ50の画像

1981 ヤマハ・RZ50

前後18インチタイヤと6速クロスミッション採用など、RZシリーズの名に恥じない仕上がり。
当時価格:176,000円

1982年発売スズキ・RG50Γ(ガンマ)の画像

1982 スズキ・RG50Γ(ガンマ)

17インチの前輪小径タイヤ、角型パイプフレーム、フルフローターサスやANDF(アンチ・ノーズ・ダイブ機構式フロントフォーク)の採用など、とどまることを知らない進化を印象づけた。
当時価格:189,000円

1987年発売ホンダ・NSR50の画像

1987 ホンダ・NSR50

フルサイズの本格原付ロードスポーツであるNS50Fに対し、こちらは前後12インチタイヤのミニスポーツとして登場。当時のワークスレーサー、NSR500のデザインイメージを踏襲した。
当時価格:219,000円

一方のオフロードモデルは求められる出力特性がオンロードとは異なるのだが、当時の性能至上主義的状況のなかでは顧みられず、日増しにヒートアップするオンロードモデルのパワーユニットを流用したモデルが次々に登場した。

まず1981年にはカワサキAR50のオフロード版とも言えるAE50がデビュー。この陰でヤマハGT50の最終型が発売され、ミニトレの長い歴史に幕が下ろされている。そして翌1982年、ホンダが上級モデルと同サイズのタイヤ(前輪21インチ、後輪18インチ)を装着して悪路走破性を高めたMTX50を発売すれば、対するヤマハはRZ50と同じ原付オフロード初となる水冷エンジンを搭載したDT50を送り出すなど、メーカー間の競争は激化していった。

さらに1983年にはスズキがハスラー50をフルモデルチェンジさせ、原付オフロード車も水冷2サイクルが主流となる。しかし市場のオンロード熱の高まりとともにオフロード人気が衰退し、小変更のマイナーチェンジこそあるもののオンロードモデルのようなニューモデルラッシュは沈静化していく。

そんな1988年、ホンダが送り出したのがCRM50であり、これもまた進化の極みを感じさせるものだった。

オフロード

1982年発売ヤマハ・DT50の画像

1982 ヤマハ・DT50

ヤマハの本気がみなぎるキャッチコピーは、「オフロード性能を徹底追求してスーパートレールの世界を50ccクラスに実現!」だった。
当時価格:169,000円

1983年発売スズキ・ハスラー50の画像

1983 スズキ・ハスラー50

RG50Γと同じエンジンを搭載する水冷ハスラー、フロントホイールは21インチ化され走破性もアップ。
当時価格:175,000円

1983年発売ホンダ・TLM50の画像

1983 ホンダ・TLM50

オフロードのなかでもトライアル競技に特化し、過熱するパワー競争から一歩引いた独自のポジションを築いた。
当時価格:179,000円

1988年発売ホンダ・CRM50の画像

1988 ホンダ・CRM50

原付フルパワーのエンジンに6速ミッションを組み合わせ、スポーティな性格としながらバランサーを内蔵し、長時間走行にも対応した。
当時価格:239,000円

とどまることを知らぬ進化の波
そして生まれた脱高性能化モデル

うねりを増すバイクブームと呼応して白熱するパワー競争のなか、バイクに対する社会の目も少しずつ厳しいものへと変わりつつあった1983年。これに応える形でメーカー自ら規制導入を決定、翌1984年からの実施となる。この自主規制により最高出力7.2ps、最高速度60km/hで性能は横並びとなった。が、当初その対応にはメーカーごとに違いが見られた。ヤマハはヒット作RZ50の販売を終了してしまい、カワサキとホンダは既存モデルのエンジンをデチューン、つまり意図的にパワーダウンさせてしまう。そうしたなか、スズキはカタログスペックを最高値のまま維持。当時のユーザーはこれを支持し、慌てた他メーカーが対応に追われるのだが、このために短命に終わるモデルもあった。

そうした混乱とは一線を画していたのが、「レジャー・バイク」と「アメリカン」だ。いたずらに性能だけを追い求めるのではなく、もっとフランクにバイクと付き合う。そのためのアイディアにあふれたモデルたちが、次々に生み出されたのも80年代の特徴だった。

レジャー・バイクのなかでも、さしずめホンダのモトコンポなどは個性のわかりやすさではダントツかもしれない。逆にスズキのギャグは、そのネーミングの秀逸さも含めて写真だけではわかりにくいだろう。なにしろホンダ・モンキーのサイズ感で、レーサーレプリカのフォルムを実現。しかも造りだって凝っていて、上辺だけの手抜きを感じさせないのだから、まさに「ギャグ」としかいいようがない。

ヤマハにはポップギャルという、その名のとおり「ギャル」にフォーカスしたモデルもあった。スクーターとは違った奇抜で愛らしいスタイルに隠されたアイディアのなかには、スピードメーター横にしつらえたバニティミラー付きの小物入れなんて装備まであった。

そしてアメリカンは70年代末に現れた新しいジャンルで、バイクブームとともに80年代に定着していった。特に明確な定義はないのだけれど、アメリカ大陸に象徴される広大な大地を、ゆったりとどこまでも走り続ける。そんなユーザーの要求にしっかり応えてくれるモデル、といった感じだろうか。

当然、速さや効率は二の次で、それよりもバイクも含めたそのときどきの状況との一体感が優先される。有り体にいってしまえば「自然に溶け込む」といった感じで、オフロード乗りとの共通性も感じられるが、あくまでも速さや効率は二の次という点が決定的な違い。また、それは当時のメインストリームである「レーサーレプリカ派」とは、ある意味で真逆ともいえるわけで、それらが同時に成り立ったバイクブームの大きさをあらためて感じさせる。

レジャー・バイク

1981年発売ホンダ・モトコンポの画像

1981 ホンダ・モトコンポ

車に積んで出先での行動範囲を広げる、「6輪ライフ」を提案。当時のヒット車だったシティとのセット販売もされた。
当時価格:80,000円

1986年発売スズキ・ギャグの画像

1986 スズキ・GAG(ギャグ)

一見すると普通のスポーツバイクだが、実は前後10インチのミニサイズの本格レーサーレプリカ。
当時価格:183,000円

1988年発売ヤマハ・TDR50の画像

1988 ヤマハ・TDR50

走る道を選ばないデュアルパーパスモデル。12インチホイールながら窮屈さを覚えないサイズ感も魅力。
当時価格:229,000円

1988年発売カワサキ・KS-1の画像

1988 カワサキ・KS-1

前後10インチのミニサイズでありながら、本格「スーパーモト」の雰囲気と走りを実現。
当時価格:183,000円

アメリカン

1980年発売ヤマハ・RX50スペシャルの画像

1980 ヤマハ・RX50スペシャル

ヤマハのアメリカン、スペシャルシリーズの原付はフロント19インチ、リア16インチの本格派。
当時価格:158,000円

1982年発売カワサキ・AV50の画像

1982 カワサキ・AV50

当時、流行し始めていたアメリカンのテイストを取り入れたポップでキュートなミニアメリカン。
当時価格:145,000円

1986年発売ホンダ・Jazzの画像

1986 ホンダ・Jazz

原付アメリカンの最終形ともいえるモデルで、10年以上にも及ぶロングセールスを記録した。
当時価格:199,000円

ブームは去ってしまったけれど
色褪(あ)せないバイクたちに思いを馳(は)せる

自主規制によって一時的に混乱した原付市場だが、各社対応モデルを急遽(きゅうきょ)リリースし性能差を解消。落ち着くかに見えた1986年、再び激震が原付市場を襲う。道路交通法の一部改正だ。具体的には二段階右折の導入とヘルメット着用義務付けで、安全を考えればいわずもがなの改正だった。というより、遅きに失したとさえいえるかもしれない。

ところが、なのである。どんな場合でもそうだが、急な変化は人を戸惑わせる。特に、一気に増えた女性ユーザーはヘルメットを被ることに対して、微妙な心境をのぞかせた。オシャレに敏感なユーザー層だけに、揺れ動く女ゴコロは理解できるのだが……。

こうした変化のなか、矢継ぎ早ともいえたニューモデルのリリース合戦も沈静化していく。とはいえ、正常進化の勢いが衰えたわけでは決してなく、定期的なマイナーチェンジとモデルチェンジは着実に続けられた。それでも数字だけを見れば1985年の二輪車生産台数は約454万台と、1980年と比べれば200万台近くも減ったことになる。さらに1990年になると約280万台にまで減少し、うち原付のそれは134万台ほどだった。

このドラスティックな数字の変化をもって「バイクブームの終焉(しゅうえん)」といわれるわけだけど、個人的にはちょっと引っかかる。確かに数字は減った……けれど、と思うのだ。当時、ボロボロの革ツナギに身を包んでスクーターに乗る学生とおぼしき若い子たちを街のあちこちで見かけたし、そんな出で立ちの仲間たちと連れ立ってツーリングしているのだろうグループも珍しくはなかった。なんというか、ライダーと呼ばれた人々、バイクを楽しんでいる人々が、消え失せてしまったわけではなかった、と思うのだ。実際、盛況だったスクーターレースやミニバイクレースも、かつてほどではないにせよ今も健在だ。灯火が、消えてしまったわけではない。

夏の終わりの夕日に照らされ、道路に長い影を落としながら走り去る。そんな80年代の残照を見送り、季節は秋から冬へと変わってしまった。長い冬の時代が続く二輪車市場に、再び夏の日差しが戻るのか? それは、わからない。けれど、眩(まぶ)しかったあの日々を消し去ることは誰にもできない。楽しかったバイクとの日々を覚えている皆さん、バイク再び! いかがでしょう?

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