車のある風景

中伊豆の謎

松任谷正隆
2022.11.01

イラスト=藤井紗和

2022.11.01

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1年点検を受けると、だれにでもチャンス

音楽プロデューサーでありモータージャーナリストでもある松任谷正隆さん。無類のクルマ好きとして知られる松任谷さんのクルマとの深い関わりをエッセーでお届けします。今月のエピソードは、松任谷さんのお父様の運転免許をめぐるエピソードと中伊豆でおきた謎の出来事について。


中伊豆の謎

9年前に亡くなった僕のおやじは若い頃は文学青年だったらしい。結局、かたい銀行員として定年まで過ごしたのは家族のためで、本来なら好きな道を歩みたかったに違いない。こうして僕が拙い文章を書いているのも、思えばおやじの影響が大きい。子供の頃、作文を書く度に添削をされ、もちろんこちらとしてはいい気分などしないのだが、なるほどな、と思ったことは何度もあった。添削をしているときのおやじは嬉々(きき)としていて、本当に文章が好きなんだな、と思ったものだ。お風呂に一緒に入ると必ず歌を歌った。話し声とは違って歌声は案外高く、しかもビブラートがかかっていた。そんなに上手くはなかったと思うが、自分ではボーイソプラノだったんだぞ、なんて言っていた。そのせいか我が家にはウィーン少年合唱団のレコードもあった。音楽は現実離れしていて好きにはなれなかったけれど、もっといやだったのは、おやじが風呂場で歌う歌が軍歌だったことだ。おやじは徴兵され訓練まではやったものの、戦地に行く前に終戦になったらしい。ただ、その頃の想い出は強烈だったらしく、けっこうナイーブな性格ゆえ、軍歌に潜む哀しさや、やるせなさがすっかり染みこんでしまったのだろう。まさか音楽家を目指したかったわけではないだろう、とは思うが、もしそうだったとしたら、僕はまるでおやじの後を追っているようなことになる。親子が似ている、というのは後になって気付くものなのかもしれない。たしかに僕が短気なのはおやじ譲りだ。


以前書いたことがあるが、おやじは僕が小学校の頃、一度免許を取ろうとしたことがある。明日から通うぞ、と言われて、僕は目の前がバラ色になった。僕より年上の人たちならわかると思うが、当時、つまり50年代の日本ではマイカーなんてまだ手の届かない存在だったのだ。少なくとも中産階級の間では。うちがクルマのある家庭になる……何と素敵なことか。おやじは井の頭線の明大前駅から見える教習所に通い始めた。そしてそれから2日だったか3日だったか後に、もうやめた、と言った。愕然(がくぜん)とした。なんで? と何度も問いただした。諦めきれなかった。おやじは教官と喧嘩(けんか)をしてやめてきたらしい。これも今では考えられないことだが、当時の教習所は……僕が通ったその後の教習所でさえ、それは高圧的で不条理で、おやじの時代はさらに酷(ひど)かったに違いない。教官も下手な運転の脇に座らされてストレスが溜まり、そのはけ口として生徒をいじめていたのだろう。曲がったことの嫌いなおやじに耐えられるはずもなかったのだ。


我が家で最初に免許を取ったのは僕で、それは高校3年の時。軽免許が存在した最後あたり、ということになる。おやじよりもクルマに夢を見ていたから、不条理には耐えに耐えた。よく我慢出来たと思う。特に不条理だった助手席からの急ブレーキは今でも許せない。意味もなく踏まれるのだから。でもって、おふくろが僕に続いた。3年くらい後だっただろうか。おふくろは割合感情を表に出さないタイプなので、すんなりと取ったように思う。いや、でもきっといろいろあったのだろうな。そして弟がだいぶしてから取得した。これでおやじ以外はみんな運転出来るようになった。我が家のクルマを巡ってはいろいろな話がある。いくつかのエピソードは書いたことがあるが、まあそんなことはどうでもいい。
おやじはたぶん60歳で定年退職し、好きなことを始めた。陶芸、書道、たまにひとりで南米に行ったりもしていた。この頃には逗子(ずし)におふくろと2人で住み、修善寺に別荘を建て、おふくろの運転でしょっちゅう往復していた。文学青年だったおやじは中伊豆が大好きで、名所をクルマで巡るのを何よりも楽しみにしていた。ところが、大好きなある旅館を訪ねたとき……確かおやじたちが新婚旅行で行った古い旅館と聞いた覚えがある……もう二度と来ないでくれ、と門前払いを食わされたらしい。理由も言わずに。もちろん何も心当たりはなかったそうだ。


いったい何があったのだろう。


その後、おやじとおふくろが修善寺の別荘に行くとき、ちょうどクルマの撮影で修善寺方面にいた僕と上手いこと時間が合って、一緒に亀石峠のドライブインでごはんを食べたことが一度だけある。おやじはずいぶん小さくなっていた。親子なんてそんなに話題はないもので、自然にその旅館の話になった。僕が許せないね、と言うと、おふくろは本当に訳が分からない、と言った。おやじは単純に残念そうだった。ドライブインから出て行く2人を見送って僕は撮影に戻った。夏の終わりの、ヒグラシの鳴き声が印象的な午後だった。結局理由を知らないまま、2人ともいなくなってしまったけれど、僕は近いうちにその謎を解明したいと思っている。

松任谷正隆

まつとうや・まさたか 1951年東京生まれ。作編曲家。日本自動車ジャーナリスト協会所属。4 歳でクラシックピアノを始め、20歳の頃、スタジオプレイヤー活動を開始。バンド「キャラメル・ママ」「ティン・パン・アレイ」を経て多くのセッションに参加。現在はアレンジャー、プロデューサーとして活躍中。長年、「CAR GRAPHIC TV」のキャスターを務めるなど、自他共に認めるクルマ好き。

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