2016年05月12日 10:00 掲載

すごい先人に会いに行く 第2回 この人がいなければ、今の日本はなかった?
●第11代薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)(1809~1858)


ペリーが浦賀に来航する2年前の1851年、薩摩藩主に就任した島津斉彬。「暗君(あんくん)なし」と言われた島津家でも、名君中の名君です。

江戸の芝藩邸で生まれた斉彬は、嫁入りのときに多くの書籍を持参し、おむつ替えから、読み書きや和歌、絵画の指導なども自らの手で行ったという実母と、西洋や中国の文物に強い関心を持ち、中国語やオランダ語も話したという曾祖父・重豪(しげひで)の、深い愛情と教育を受けて育ちました。「二つ頭(びんた)」と褒め称えられるほど頭脳明晰、体格も立派で、声も大きく、威風堂々としていたと言われる斉彬ですが、藩主になったのは43歳のときでした。

時は幕末。植民地政策を進める欧米諸国が、アジアに進出してきた時代です。九州南部にあり、他地域よりも早い1840年代から、激しい外圧にさらされてきた薩摩藩は、前藩主・斉興(なりおき)の頃から軍備の近代化を図ってきました。斉彬はこれをさらに進める一方で、最も大切にしたのが「人の和」です。人の和はどん な城郭にも勝り、それは人々の豊かな暮らしを保障することによって生まれる、と考えていた斉彬は、紡績やガラス、窯業などの民需産業の育成や、教育、電信、ガス、医療、福祉などの社会基盤の整備にも取り組みました。

また、ペリー来航によって各藩が、攘夷派と開国派で争う中、幕府や藩という枠組みを超え、「日本」が一つになって強く豊かな国になることを目指すべきと考え、白地に朱丸一つの日の丸を日本の船の印にしようと、幕府に提案したのです。

人民の暮らしを良くするため、次々に決断、実行に移す政治力。まさに理想のリーダー像! その根底にある深い見識と広い視野は、実母とひいおじいさんの教育の賜物(たまもの)だったのでしょう。若い頃、ひいおじいさんに連れられて、シーボルトを出迎えに行ったという逸話も残っています。

斉彬は、西郷隆盛をはじめとする下級武士も抜擢しました。1858年、50歳で急死しますが、斉彬の意思は、弟の久光をはじめ、西郷、大久保利通、寺島宗則など多くの薩摩人に受け継がれ、明治維新とその後の近代化政策にも大きな影響を与えました。 島津家別邸の仙巌園(せんがんえん)と、その隣にある尚古集成館(しようこしゆうせいかん)では、斉彬が築いた東洋最大の工場群「集成館」と、その業績の数々について知ることができます。

西郷に「あたかもお天道(てんとう)さまのようなお方」とまで言わしめた、かっこよすぎる斉彬。最後に、趣味は朝顔の栽培だったという、かわいらしい一面もご紹介しておきましょう。

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尚古集成館本館は、1865年竣工の、現存する日本最古の機械工場を、博物館施設として利用している。ここと旧集成館(史跡)を含む「明治日本の産業革命遺産」は2015年、世界文化遺産に登録。

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館内には、斉彬が造らせた反射炉の模型も。

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斉彬筆「思無邪」。「思いよこしまなし」と読む、斉彬の座右の銘。

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薩摩切子も斉彬の集成館事業の一つ。海外への輸出も意識していたというから、さすが!

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美しい桜島と錦江湾を借景とする仙巌園(磯庭園)。

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仙巌園内にある反射炉跡。オランダ人ヒュゲニンの著書を頼りに、試行錯誤の末、自力で完成させ、技術力の高さを示しました。

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斉彬も愛した仙巌園。江戸時代初期に琉球国王から贈られたと伝わる「望嶽楼」では、斉彬と勝海舟が対面したそうです。

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園内には、猫を祀るお社「猫神」も。島津義弘が朝鮮出兵の折に、猫の目を時計代わりにしたことが由来とか。

尚古集成館 鹿児島市吉野町9698-1  ℡099・247・1511
仙巌園 鹿児島市吉野町9700-1  ℡099・247・1551
【開】8:30~17:30  無休 【料】大人(高校生以上)1,000円、小・中学生500円

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撮影=村上宗一郎