2016年04月12日 18:13 掲載

すごい先人に会いに行く 第1回 自由でお茶目。「描くために生きた」98年 ●画家・杉本健吉(1905~2004)


明治、大正、昭和、平成にわたる98年の生涯を、絵とともに生きた画家・杉本健吉を知っていますか?

絵の具を布団に入れて寝るほど、小さい頃から絵が大好き。当然、絵描きになりたかった杉本少年ですが、とある洋画家に「絵は趣味でやり、生活を支える職業は図案家(今で言うグラフィックデザイナー)として勉強しなさい」と言われ、工業学校の図案科に進学。18歳で卒業後は企業に就職し、図案などの仕事に従事します。そのかたわら、20歳で岸田劉生に弟子入り、本格的に絵画の道も歩み始めるのです。

22歳になると図案家として独立、名古屋鉄道(名鉄)の観光ポスターなどを多数手がけるようになり、24歳で結婚。その後、昭和天皇・皇后両陛下の伊勢神宮参拝の際に、案内図を担当するほど、名古屋のグラフィックデザイン界の第一人者となりますが、好きな絵を描くこともやめませんでした。岸田劉生亡き後は、30歳で梅原龍三郎に師事。杉本は、「絵の骨格を岸田劉生から、華やかさを梅原龍三郎から学んだ」と言っています。

35歳頃からは大和の風物に魅せられ、奈良へ頻繁に通って作家や写真家などさまざまな一流の人たちと親交。戦争中も、博物館や埴輪、仏像、風景などを多数描いています。45歳で、「週刊朝日」の連載小説、吉川英治の「新・平家物語」の挿絵に抜擢され、最終回まで7年間担当。その後は、1962(昭和37年)年57歳での沖縄(当時はアメリカ占領下)旅行を皮切りに、96歳の中国まで、たびたび海外へスケッチ旅行にも出かけました。2004(平成16)年2月10日、肺炎のため満98歳でこの世を去りましたが、その直前まで絵筆を放さなかったといいます。

「絵は子どもと同じ」と言って、ほとんど自分の絵を手放さなかった杉本。当時すでに4,000点以上あった作品を収蔵・展示する場所として1987(昭和62)年にオープンしたのが、知多半島の杉本美術館です(現在は9,700点あまりを収蔵)。モダンで瀟洒な館内と庭は、設計段階から杉本自身も関わり、ロゴマークも本人のデザイン。地下のアトリエで、たくさんの作品も生み出しました。

「まず驚きだ、感激だね。感激すれば受胎して、その子どもが絵なの」「感激というのは出逢わなければわからない。対面しないとわからないから、対面するために自分がいろんなことをやったり、出かけていく。それが外国でなくてもかまわないし、身近なことでもかまわない。いつも見ているものでも感激したら、それに夢中になる」(『杉本健吉画文集 余生らくがき』より)

これは杉本が96歳の時、自身の絵の原点について語った言葉です。オープン当初から杉本美術館の学芸員を務める鈴木威さんは、「このアトリエに通って来る時も、道中、一心不乱にじーっと外を見つめて、常に新しい発見や感動を探していました」と教えてくれました。

杉本の人となりについては、「とにかく動物と子どもが大好き。ご自分にも7人のお子さんがいて、家族を大切にする家庭人でした」と、鈴木さん。来館の際、連れてきた赤ちゃんが泣いて恐縮しているお母さんに、「赤ちゃんは泣くのが仕事」と笑いながら話しかけたこともあるとか。歴代の愛犬をはじめ、動物を作品にもたくさん描きました。また、ダジャレも大好きだったそうで、右手を骨折して使えなくなった時(当時84歳)は左手で絵や文字を書き、「左手誕生」という作品を残したり、絵の中に自分の姿を描き入れたり、92歳の時、名古屋能楽堂の鏡板に「若松」を描いたりと、自由さもお茶目っぷりも半端ありません!

「杉本作品の魅力は、どんな人が見ても楽しめる絵画」と鈴木さんが話してくれたように、作品への愛と感激にあふれた、楽しくてすてきな作品がいっぱいです。

この美術館を訪れて、「人は年を取っても、好奇心や感激がある限り、老いることはないんだよ」「人生をおもしろくするもつまらなくするも自分次第」などと、杉本に語りかけられているような気がしました。 

杉本健吉、この人を知らないなんてもったいない! ぜひあなたも杉本美術館に、会いに行ってみてください。

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