「蔦谷喜一」と「ぬりえ」

蔦谷喜一とぬりえ文化

 「ぬりえ」を辞典で引いてみると『色が塗れるように輪郭だけ描かれている子供向けの絵』という説明が載っていました。 しかし、「ぬりえ」の魅力は単なる子供向けの絵や遊びという括りには収まり切らないほど幅広 く、心の情操を養ってくれる奥の深い文化の一つです。

 ぬりえは、明治5年(1872年)の学校制度の中に「罫画」として画学が設けられ、後に「図画」と改称された教育が正規の課目として小学校に取り上げられました。 西洋の図画の教科書を翻訳して作られた教科書の絵をなぞって色を塗る、つまり「ぬりえ」をするように図画教育が進められたのでした。 このように、教育のために始まった「ぬりえ」ですが、明治時代の子供の冬の遊びとしても取り上げられています。 また、大正7年、輸入されたクレヨンと共に幼稚園でも「ぬりえ」が急速に普及したと言われ、そして今も「ぬりえ」は保育教育に活用されています。

 明治時代からある「ぬりえ」が大変な人気となったのは、第二次世界大戦が終わった昭和20年以降のこと。物資は乏しくても、戦争の無い平和な時代がやっと戻ってきた頃です。 また、戦後のベビーブームが更にその人気に拍車をかけたようです。 最も人気を集めていた ぬりえ作家「きいち」(蔦谷喜一)は、当時、2つの会社に毎週「ぬりえ」を描いていましたが、その売上合計数は平均100万部、ピーク時には160万部にも及んだほどです。 戦前は下絵を描いたようですが、戦後は印刷方法も進歩して、ジンク版(亜鉛版)に直接描きました。書き直しできない一発勝負でした。砂で磨くと数回使えたジンク版も最後は廃棄されたのでしょう。そのため原画は残っていません。

 「ぬりえ」には、女の子の憧れでもある少し上流のお金持ち(ワンランク上)の暮らし振りや 当時の日常生活、風習、風俗などが描かれていて、今では無くなってしまったものも沢山描かれています。 殆んどの女の子がワカメちゃんのような「おかっぱ」というヘアスタイルの時代では、パーマをかけた髪は女の子の夢でした。リボン一つでも嬉しくて、自分はしていなくても「ぬりえ」の中のリボンを塗って、自分もつけているような満足感を得ていたのでしょう。 綺麗な着物姿の花嫁さんや舞妓さん、お姫様、素敵なパーマをかけたヘアスタイルや お洒落なファッションなど、どれもが全て憧れでした。 それに、憧れはファッションばかりでは有りません。 当時の高価なお菓子(チョコレート、アイスクリーム、ケーキ)や超高級なフルーツ(バナナ、メロン)といった食べ物の「ぬりえ」をすることが嬉しかった子も少なからずいたそうです。

 ところで、この時代の「ぬりえ」は自由に好きな色を塗ったので、仕上がりも十人十色と言われていたようです。 また、戦前(昭和10年代)には1枚づつ「バラ売り」されていたぬりえも、戦後になって「絵 葉書セット」をヒントに考えられた、ぬりえが数枚が入っている「袋入り」で売られるように なりました。「袋入り」は昭和40年頃まで当時の価格で1袋5円から10円くらいでした。 兄弟姉妹や友達とお金を出し合って1袋買い 皆で分け合って塗っている子供がいた、1枚 の「ぬりえ」でも とても大切にされていた時代でした。 ノート状の「ぬりえ」が売られるようになったのは昭和40年以降からでした。 テレビの普及と共に時代が変わり、映画、紙芝居、ぬりえなどが衰退していきました。同時に アニメキャラクターのぬりえが増え、キャラクターものでは無いぬりえは消えていきました。

「きいち」のQ&A

Q:「きいち」って どんな人?

 1914年 紙問屋の五男(9人兄弟)として東京築地に生まれ、裕福に育ちました。 子供の頃から人物画が巧みで、やがて画家の道を目指し画学校に入学。 戦前、アルバイトで始めた「ぬりえ」は、戦後2年目に「きいち」の名前で再開し、自費出版、共同出版を経て描く方に専念。 2社から出した「ぬりえ」は大ヒットとなりました。 ぬりえブームが去った後は、美人画や日本画を、晩年には仏画を描いていました。 銀座近くで育った喜一は日本舞踊の名取になるなど、生涯「粋なモダンボーイ」だったようです。

Q:「きいち」のぬりえの特徴は?

戦前、戦後、年代によって少しづつ変化しています。

・戦前は「フジヲ」のペンネームで描いていました。

・戦前のぬりえは日本画の美人画を絵にしたようなぬりえで、絵の中には幾つもの日本画の技法が使われていました。 とても豪華に細部まで描かれていて「子供の遊びのぬりえ」とは言えないほどでした。 洋風の絵は、サインと黒い鳥が描かれています。 「きいち」の特徴でもあるパーマをかけた髪は、クルクルと波の模様のように、また、太い足もこの頃から描き始めていたようです。

・昭和20年代前半、「きいち」の時代になって初期の頃は目の間隔が離れていて、 たれ目、大きな四角い顔に太い足、少女達は紙からはみ出さんばかりに、画面いっぱいに、 髪の生え際のうぶ毛まで詳細に描かれています。 サインの小鳥はとても細く痩せています。 構図的に面白いものや、今では見られなくなった懐かしい風物詩や生活道具なども描かれたりしています。

・昭和20年代後半から30年代前半では、真っ直ぐにこちらを見ているような、まあるい「の」の字のような目が特徴です。 大き目の顔も四角はあまり強調されなくなり、ちょっとした少女のしぐさが優しく可愛らしくなりました。 着物や洋服の柄がいろいろ描かれているのも、この頃の特徴で、まだ日本全体が貧しかった時代に、 素敵な服やアクセサリー、ヘアスタイルなどのファッションや少し山の手風(現代ならセレブ?)の生活を描いて見せてくれた、 憧れや夢がいっぱい詰まったぬりえでした。

・昭和30年代後半から40年代前後になると、テレビが普及してきて、子供たちの遊びも変わってきます。 「きいちのぬりえ」もこの時代になると、はっきりした「の」の字の目から、 アイラインを入れたような切れ長の目になるまで徐々に変化していきました。 足もすっかり細くなり、髪の毛は色を塗れるように白く、洋服も柄が無く、線のみで描かれています。 自動車、電気掃除機、芝刈り機など、この時代の商品が取り上げられています。

Q:ぬりえが一番売れた地域は何処?

 日本全国で大ヒットした「きいちのぬりえ」ですが、その中でも特に売れたのは北海道だそうです(きいち談)。 雪が深く、外で遊べない子供たちにとって格好のおもちゃだったのでしょう。      

Q:「きいちのぬりえ」にモデルはいるの?

 特に瞳は子供の頃に絵本で見た記憶の有る「潤んだような瞳」にしたそうです。 世界のアイドルであったシャーリー・テンプルもイメージモデルのひとりですが、 最終的には妻である「まさ」さんがモデルだとも言われています。

『竹久夢二や高畠華宵の目にも影響を受け、それらがフランス人形や外国映画の女優さんの「くるりとした睫毛」の影響を受け、 変化してああいう目になった』(きいち談)

戻る