希望の牧場・ふくしま=福島県浪江町周辺
被災地に残された命をつなぐ

 東日本大震災の翌日、福島第一原発1号機の建屋が爆発し、避難指示の範囲がそれまでの原発3km圏内から20km圏内に拡大した。その後も、原発の建屋が次々と爆発。騒然とするなかで、住民は取るものも取りあえず避難を急ぐしかなく、すぐに町は無人となった。

 エム牧場浪江農場は、原発から14kmの距離にある。その農場長であった吉沢正巳さんは、ホームセンターで買い物中に被災した。渋滞を避けながらなんとか牧場に帰りつくが、施設の一部は潰れ、牧草地は地割れを起こしていたという。それでも停電の中、発電器を回して牛に水を飲ませた。そして、カーナビのテレビからの情報で、福島第一原発の様子が変だということを知る。吉沢さんの牧場からは、遠くに原発の排気塔が見える。

 「それでも牛を残して逃げる気はまったくなかったね。実際、逃げ出すほど怖いとは感じなかった。原発の中での作業はまさに決死隊だっただろうけど、ここなら影響はあっても、すぐに死ぬことはないなと思ってた」と吉沢さんは言う。建屋が爆発し、牧場に緊急の通信施設を置いた警察が避難した後も、吉沢さんは牧場に残り牛の面倒を見続けた。

震災前のエム牧場浪江農場が、生き残った牛のための「希望の牧場・ふくしま」になった。「現実には死と隣合わせの牧場だ」と言いながら、吉沢さんは日々、希望をつなぐために奮闘している。

300頭以上の牛を飼うには1日約5トンの餌が必要だと言う。

自身を「牛飼い」、「べこ屋」と言う吉沢さん。だからこそ、生かす意味は見つけられなくても、牛は殺せないと言う。

 約1か月後、原則として立ち入りのできない警戒区域が設定される。警戒区域内は、牧畜が盛んだった地域で、牛約3500頭、豚約3万頭が飼育されていた。その半数以上は餓死したと言われるが、野生化したものなど、警戒区域内の家畜は、所有農家の承諾を得たうえで殺処分という指示もでた。

 そのような中で、吉沢さんは殺処分を承諾せず、牛を守り続けてきた。当然、行政からは殺処分を承諾するよう言われ、苦渋の思いで殺処分を受け入れた農家からも批判を受ける。吉沢さん自身も、なぜ飼うのか悩みに悩んだという。「ここの牛はもう売れないから経済価値はない。家畜でもペットでもない。動物園にもならないよね。なんのために飼うのかと、俺自身考え続けた。でも、俺は牛飼いとして殺すわけにはいかないんだ」。

 牛を生かし続けているのは、吉沢さんだけではない。近隣の13牧場が、現在も約700頭の牛を飼育している。吉沢さんは、「希望の牧場・ふくしま」に名前を変えた場所で、今も約360頭を飼育している。そのような牛を生かす道を見つけることを目指す「希望の牧場・ふくしま」という一般社団法人も設立され、吉沢さんが代表に就任した。

 福島の現実がなかなか伝わらず、逆に放射線に汚染された地域というイメージばかりが広がっていることに、吉沢さんは納得がいかない。少しでも、その現状、思いを知ってもらうために、月に一度東京の街角に立ち、声を枯らして訴え続けている。最初はまばらな人も、その真摯な声に多くの人が集まり、ときには涙を流すという。そして、福島の現実を示す証拠として、最大の被害者ともいえる牛を生かすことは意味があるのではないかと、最近は考えている。

 牛たちは、この事故を生き抜いてきた、ある意味貴重な生きた資料だ。その調査をきちんと進めることで、将来に大きな資産を残すこともできる。何事もなかったかのように殺処分してしまっていいのか、と吉沢さんは訴える。さらに、エネルギーのことを考えるきっかけにもなる。それは福島だけの問題ではなく、日本全体の、世界の問題でもある。それらが復興の希望につながるのだと信じて、吉沢さんは人生をかけて牛を生かす。

希望の牧場・福島は、終戦後、満州で棄民となった吉沢さんのお父さんが苦労して残した土地だと言う。「だからこそ、今回の事故でまた棄民にはなりたくない。諦めることはできない」と吉沢さん。

警戒区域内の牧場では、多くの牛が牛舎につながれたまま水も食料もなく餓死したと言う。

牧場内で自由に暮らす元気な牛たち。だが一部の牛には、牛飼いのプロである吉沢さんも見たことのない脱毛や斑点が生じているという。そういう調査のためにも牛を残す必要があると、吉沢さんは言う。

吉沢さんの思いと行動を記録した一冊。
『原発一揆』針谷 勉著
(サイゾー刊 1,365円+税)

取材協力=希望の牧場・ふくしま
http://blog.goo.ne.jp/kibouno-bokujyou